本日(1月3日)の各紙社説のうち、産経と毎日が天皇代替わりのテーマを取りあげている。極右路線で経営危機を乗り切ろうという産経の相変わらずの復古主義の論調には、今さら驚くこともない。言わば、「犬が人に噛みついた」程度のこと。仮に産経が国民主権原理から天皇を論じることになれば、「人が犬に噛みついた」大ニュースとして注目を集めることになるだろうが。
産経主張の表題が、「御代替わり 感謝と敬愛で寿ぎたい 皇統の男系継承確かなものに」という時代がかった大袈裟なもの。産経はこれまでも「御代」「御代替わり」なる語彙をたびたび使用してきた。恐るべき時代錯誤の感覚である。そして恐るべき臣民根性の発露。
産経は、「天皇陛下が、皇太子殿下へ皇位を譲られる歴史的な年を迎えた。立憲君主である天皇の譲位は、日本の国と国民にとっての重要事である。」という。これはまさしく信仰の世界の呪文に過ぎない。天皇教という信仰を同じくする者の間でだけ通用する呪文。その信者以外には、まったく通じる言葉ではない。
天皇の代替わりとは、「天皇」という公務員職の担当者が交代するだけのこと。しかも何の国政に関する権能も持ってはならないとされている天皇の地位である。その地位にある者の交代が、「歴史的な」「重要事」ということは、日本国憲法の基本理念の理解を欠くことを表白するものにほかならない。
また、産経は、「長くお務めに精励されてきた上皇への感謝の念と、新しい天皇(第126代)への敬愛と期待の念を持ちながら、国民こぞって御代(みよ)替わりを寿(ことほ)ぎたい。」ともいう。
こういう、「感謝」「敬愛」「寿ぎたい」などの押しつけは、迷惑千万このうえない。このようなメディアの言説は、天皇にまつろわぬ人々を「非国民」として断罪した集団ヒステリーの時代を彷彿とさせる。
産経の論調の中で看過できないのは、「新天皇が国家国民の安寧や五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る大嘗祭(だいじょうさい)を、天皇の私事とみなす議論が一部にある。これは「祈り」という天皇の本質を損なう考えといえる。大嘗祭が私事として行われたことは一度もない。」というくだり。
産経に限らず、「天皇の本質は『祈り』である」などと言ってはならない。それこそ、憲法が厳格に禁じたところなのだ。かつて天皇は、神の末裔であるとともに最高祭司でもあった。天子とは、天皇の宗教的権威に着目した呼称である。大日本帝国憲法は、天皇の宗教的権威を積極的に認めて、これを天皇主権の根拠とした。国民主権を宣言した日本国憲法は、天皇からいっさいの政治的権能を剥奪しただけでなく、その宗教的権威を認めてはならないことを明定した。それが政教分離の本質である。天皇は公に祈ってはならない。国民国家のために祈るなどは、天皇の越権行為であり、違憲行為なのだ。家内の行事として、私的に祈る以上のことをしてはならない。
毎日の社説には正直のところ驚いた。あらためて、「象徴天皇制の有害性恐るべし」の感を深くせざるを得ない。産経の主張は看過しても、毎日のこのような論調を看過してはならない。積極的批判が必要を痛感する。
毎日社説の表題は、「次の扉へ ポスト平成の年に 象徴の意義を確かめ合う」というもの。天皇は国民が選挙によって選任する対象ではない。次の選挙で取り替えることも、弾劾裁判もリコールの制度もない。そのような天皇の存在に積極的な意味を与えてはならない。「象徴」とは、存在するだけで積極的な意味も内容もない地位を表しているに過ぎない。「平成からポスト平成へ」で何も変わることはないし、変わってはならない。「次の扉へ」などと、なにかが変わるような国民心理の誘導をしてはならない。
「戦後しばらくは、民主主義と天皇制との併存について疑問視する声が相当程度あった。だが、陛下は国民主権の憲法を重んじて行動し、天皇と国民の関係に、戦前の暗い記憶が影響を与えることのないよう努めた。平成は民主主義と天皇制が調和した時代といえる」
これが、毎日社説のメインテーマであり最も罪深い世論の誘導である。産経のような一見バカげた論調ではないだけに影響力を無視し得ない。
毎日は、次のように時代を区分して、天皇制と国民の関係を整理して見せた。
1 戦前 天皇制と国民との関係は暗い時代 2 戦後しばらく 民主主義と天皇制との併存が疑問視された時代 3 平成 民主主義と天皇制が調和した時代
しかも、毎日は、「天皇が戦前の暗い記憶が影響を与えることのないよう努めた」と評価する。
私には、「民主主義と天皇制」とは対立し矛盾するのみで、その両者が調和することは到底あり得ないと思われる。ましてや能動的に行動する象徴天皇においてをや、である。民主主義とは、自立した主権者の存在があってなり立つ政治制度ではないか。天皇の存在は、主権者の自立の精神を阻害する最大の敵対物にほかならない。
主権者の精神的自立を直接妨げるものが権威主義である。権威を批判しこれに逆らう生き方は困難であり、安易に権威を認めて権威に寄り掛かることこそが安楽な生き方である。したがって権威の存在する社会では個人の精神的自立が容易ではない。天皇の存在自体が権威であって、天皇を受容する精神が権威主義そのものである。天皇とは、この社会において敬語の使用が強制され、天皇への批判が封じられる。そのような天皇という権威の存在は、民主主義にとって一利もなく、百害あるのみと言わねばならない。「天皇制と調和する民主主義」とは、まがい物の民主主義でしかない。 (2019年1月3日)
澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.1.3より許可を得て転載 http://article9.jp/wordpress/?p=11840
ちきゅう座から転載
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