「総選挙はこのようにして始まった 第一回衆議院議員選挙の真実」(稲田雅洋著・有志舎、2018年10月刊)が滅法面白い。知らないことばかりが満載。いや、これまで関心を持たなかったが、なるほどと思わせられる記事で満ちている。
権力の抑制を担保するための三権分立。法の支配を前提に、立法権・行政権・司法権と分かれるが、これは立法⇒行政⇒司法という統治行為のサイクルの各部分でもある。そのサイクル始動の位置に選挙がある。民主主義的政治過程は、選挙から始まるのだ。選挙制度も運用も、それにふさわしいものでなくてはならない。
権力の正当性の根拠は人民の意思にある。神のご意思だのご託宣ではなく、選挙によって立法府の議席に結晶した人民の意思だけが権力行使を正当化する。だから、我が国の選挙の在り方に関心を持たざるを得ないが、これまで多く語られてきたのは、1925年「男子普通選挙」実施以後の選挙の歴史。
このときに、治安維持法と抱き合わせで「普選法」と通称される「衆議院議員選挙法改正」が成立し、これが日本の選挙制度戦後の骨格を形作って、戦後の公職選挙法につながっている。25年改正法で、初めて立候補の制度ができ、供託金の制度ができ、世界に冠たる「べからず選挙」の選挙運動規制法制ができあがった。
それ以前の選挙制度については語られることは少ない。ほとんど何も知らなかった。漠然と思い込んでいたのは、選挙権・被選挙権とも、直接国税15円以上の納入者に限られていた制限選挙。当時の税制は地租が中心だったのだから、地主階級が議席の大半を占めていたのだろう。そもそも、自由民権運動の敗北が天皇主権の大日本帝国憲法制定と制限選挙での帝国議会開設となったのだから、第1回総選挙も議会も熱い政治運動の舞台とはならなかったろう。
ところが違うのだ。どんな制度でも、良質な人々は、知恵を出しあい、汗も金も出しあって、制度を使いこなそうとするものだ、という見本のような話が発掘されている。人々の知恵の働かせ方が、滅法面白いのだ。
出版社の惹句は以下のとおりだ。
1890(明治23)年の第一回総選挙で当選して衆議院議員になった者の中には、実際には15円以上の国税納入資格を満たしていなかった者がかなりいた。彼らは、支持者たちの作った「財産」によって、資格を得たのである。中江兆民・植木枝盛・河野広中・尾崎行雄・島田三郎など、自由民権運動の著名な活動家をはじめとして、数十人は、そのような者であったといえる。本書は「初期議会=地主議会」という通説のもとで解明されずにきた「財産」作りの実態や選挙戦の有り様を、長年にわたる膨大な史料の博捜により解明、貴重な史実を明らかにする。
「財産作り」とは、著者の造語。名望ある者に被選挙者としての資格を得させるために、名義上の財産(多くは耕地)を集めて15円以上の納税者とし、議会に送り出したのだ。こうして、自由民権運動の著名な活動家の多くが議員となった。これは脱法得行為のごとくでもあり、そうでもないようにも見える。まさしく、知恵と工夫の賜物。
最初に、中江兆民の具体例が出てくる。保安条例で東京を追われて、大阪で「東雲新聞」の主筆を務めていたが、収入はわずか。その彼に、支持者が議員となることを勧める。「財産」作りは自分たちがするから、是非出馬を。固辞していた彼も、支持者たちの熱意に動かされて、「新平民の代表者としてなら出よう」ということになる。こうして彼は、大阪4区(小選挙区)から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、被差別部落民らの「財産作り」で資格を得て、当選する。支持者にも、兆民にも頭が下がる。このような手法を、著者は「勝手連型」の「財産」作りと呼んでいる。
また、高知県の例では、植木枝盛等民権活動家の議会出馬の意欲を支持者らが支え、用意周到に「財産」を作って全県の定員4名の自由派系候補者を擁立し、全員が当選している。著者はこれを「win-win 型」の「財産」作りと読んでいる。
自由民権運動のなかで培われた支持者たちの信頼という「人格的財産」が、全国至るところで「勝手連型」や「win-win」型の「財産」作りとして結実した。それが、次第に議会を天皇制政府の協賛機関に納まらない力量を付けることになる、というのが著者の見方。また、このような「財産」作りには、選挙権を持たない多くの市民が参加したともいう。
制度の改善は常に必要な課題だが、現行制度の中でできるだけの知恵を出しているか、と問われる思いがする。司法のあり方には、大いに不満がある。しかし、制度の責任にして実は個別事件の中で知恵を出し切っていないのではないか、と。
(2019年2月2日)
澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.2.2より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=12020
ちきゅう座より転載
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