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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2019年02月14日21時33分掲載
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社会
私の昭和秘史(3)戦士になれなかった私 織田狂介
西鹿児島駅からバスに乗り、ざっと1時間30分余り、小高い丘陵を2,3箇所ほど越えると知覧の町に着く。JR指宿・枕崎線の喜入駅からもバスかタクシーで行く方法もあるが、いずれにしても鹿児島の南端、交通の便は決してよくないし、夕方も遅い時間帯になるともう帰りのバスはない。太平洋戦争が始まった年(昭和16年ごろ)に、この町の木佐貫原(こさぬいはら)という台地に陸軍の太刀洗飛行学校知覧文教所が開設された当時には、私鉄の南薩鉄道が唯一の交通機関だったといわれているが、すでにこれも廃線となって久しく、ともあれ、この知覧は薩南の涯ての山の中にひらけた静かな茶畑に囲まれた町として、そのまま残されているような不思議なところである。
町のパンフレットによると、「徳川幕府の天下統一が一国一城を厳守させることにあったため、薩摩藩は鹿児島の鶴丸城を内城(中核)とし、領内に122か所の外城を築造し、鉄壁の防衛の役割を果たすことにした。その一つが知覧。現在の区割は18代知覧城領主島津久峰棋公の時代に造られ、今から230〜250年前ものである。十箇所余りの庭園と武家屋敷通りが、そのままの状態で広範囲の風致地区として保存されていることは、全国的にも稀れといわれ、テレビなどでしばしば紹介されている。この武家屋敷群は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、7つの庭園も名勝に選定されている・・」という通り、なかなか幽雅なたたずまいの家並みが美しく保存されており、ゆったりと300年前のこの地の風情を伝え、安この地を訪れる人々にやすらぎを与えてくれている。それにしても、なんでこのような土地が、あの太平洋敗戦末期の、悲惨かつ非情な“死の特攻基地”として痛哭な想いの中で登場しなくてはならないのか。
すでに述べてきているように、この地を訪れることは、実は昭和20年来から、私が50年余の間、ずっと抱きつづけてきた宿願の一つでもあった。この「知覧」と、もう一か所は同じ鹿児島県内にあった海軍航空隊の特攻基地だった「鹿屋」(かのや)、そしてもう一か所が私自身が「17歳の少年時代」生命を賭けて参加しようとした海軍航空隊の「厚木基地」−この3箇所に、私(私たち)すべての激情を投入して守ろうとしていた「何か」があったからである。 こうした、私が50余年間余りの久しい歳月のあいだ、ずっとひそかに抱き続けてきた、この痛哭の想いをそのまま映し出してくれるような感動的なドキュメンタリーを書いてくれたのが、作家神坂次郎氏による『今日われ行きてあり』(昭和60年新潮社・新潮文庫判)であった。この一文の書き出しの部分を敢えてここに再録することによって、この想いを重ねてみたい。
『特攻基地・知覧ふたたび』ー序にかえて 神坂次郎著書より 薩摩半島島の最南端に、開聞岳という山がある。標高922メートル。薩摩富士と呼ばれるこの美しい円錐形の山は、裾野を大平洋に洗われ、ふかい緑におおわれた山頂から麓まで一直線の傾斜をみせた端正な山である。開聞岳の名は、鹿児島湾の入り口にあるところから“海門”と呼ばれ、それが転じたのだという。 40年前、本土最南端、陸軍最後の特攻基地知覧を出撃した特攻隊の編隊は、この開聞岳上空を西南にむかって飛び去っていた。本土ともこれでお別れである。隊員たちは、日本最後の陸地である開聞岳の姿を心の底に灼きつけるように、何度も何度も振り返り振り返り凝視めていた。なかには、万感の念いで祖国への訣別の挙手の礼を、この山の向かって捧げている少年兵もいたという。 開聞岳上空から沖縄まで650キロ。海上2時間余の飛行。この山の別れを告げ、還らざる壮途についた特攻隊員は462人。出撃機数431機。開聞岳は、美しくもかなしい山である。−昭和57年の夏、その開聞岳を再び眺め、知覧を訪ねた。37年ぶりの知覧への旅であった。戦後、いままでも幾度か訪ねたいと、渇くような想いをもっていた。その想いをもちながら、なぜか心の裡に躊躇うものがあった。戦争で死ねなかった昔の、後ろめたさ、悔恨の念なのであろうか。 知覧・・・。薩南の涯の山のなかの静かな町。「と号作戦(特攻要員)」と呼ばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、250キロの爆弾を抱えてよろけるように旅立っていった町。そんな隊員や、それを取り巻いていた人びとの、さまざまな昏い思いがこめられている町、知覧。
こうした知覧の町にやってきた私は、ひさかたぶりに、ずうっと遠い昔の少年時代には、どこの町や村にあった、古い田舎の匂いがいっぱいに溢れている、あの懐かしい風景と人情とに出くわして、むしろ驚いていた。そうしたこともあって、私の脳裡には、60年も昔の時代が、ゆっくりと走馬燈のように回りはじめていた。町はずれの一遇に建設されてある『知覧特攻平和会館』と『平和観音堂』に詣でて、ここに陳列されてある462人の若い特攻隊員たちが、死への出撃を前にしたためたといわれる「遺言」や「絶筆」の色紙や寄せ書きを読みつづけながら、私はもう我慢できなくなって嗚咽しながら涙を流し、鼻水を啜りながら、どうしようもない痛哭にのたうちまわるばかりであった。そして、不思議なことに、この「特攻会館」では年老いた人々も、戦争を知らずに育ってきた若者たちも、そんな“半狂乱”のような老人が傍にいても、別段なんのわずらわしさをも感じないで、むしろ黙ってみつめながら“共感”の感情をあらわにしてくれているということだった。
そんなこともあって、私はこの日は、終日、自らが過ごしてきた15,6歳から17,8歳のころに舞い戻っているのを実感した。後章のくだりで詳しく述べるつもりでいるが、私は昭和16年12月初め、つまりあの太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼ばれた)が勃発する年の1週間ほどまえ、陸軍幼年学校(陸士の前段階)の入学試験に応募していた。この陸軍幼年学校は、エリートの陸軍将校になるための第一の登竜門で、そのころでいえば全国の中学校1,2年生のなかでも各校のトップクラスの秀才たちが応募し、その競争倍率は3倍といわれるほの難関とされていた。私は当然のことながら、夜を日についで受験勉強に専念し、これに全力を傾注したが、結局は不合格に終わっていた。 すでに志那事変(日中戦争=昭和12年7月7日)が大本営当局(軍部の公報機関)の発表をよそに“泥沼”のような戦況を呈していたし、日米交渉の経過の内容とは別に、世界諸国やアジアの各地には文字通り戦雲昏く、私たちの頭上に重たくのしかかってはいたが、まだこのころの私たちの日常生活の周辺には、なんとなく“青雲の志”や明るい有為の前途が開けているような気もしたし、若者たちや学生たちのなかには、詩や哲学を論ずるロマンチズムが、心の中に浮遊していた。 「人と人が殺し合う」どうしようもない地獄のような在りようとは別に、やはりこの世の中をもっと素晴らしいものにしていくためには、どうしたらいいのか。どうすべきなのか・・・という真摯な問いかけが、少年の夢をはずませる“何か”が厳存していたように思うのである。
しかし、現実的な命題は、私にしてみれば、この「陸軍幼年学校」への“登竜門”は冷たく閉ざされ、この挫折感は私にひどいショックを与えた。その後の私は、まさにどうしようもないほど悶々たる青春の日々を過ごすことになる。私は、この陸軍幼年学校受験での選択外語学科を「中国語と蒙古語(モンゴル)」を選んでいた。これは、文字通り当時の私のロマンチィズムが淡い夢のような想いが込められていたのである。個人的にいえば、私のたった一人の敬愛していた兄(光次郎)が、日支事変にいち早く応招され、昭和13年12月21日、内蒙古の首都「包頭」(ウランバートル)で、共産八路軍(毛沢東将軍)との激烈な戦いの末、日本軍のほとんどが全滅同然となる憂き目のなかで、機関銃射手として応戦し、戦死している。小学生の5年になったころのことだが、この兄が戦場での寸暇に2,3人の戦友たちと包頭のはてしない草原に寝転んで一服している、のどかなスナップ写真が送られてきたことがある。これが、今になっても私の脳裏に焼きついて離れない。
そして、兄が戦死したのちも、私はいつしか「いつの日か必ずこのウランバートルを訪れて、この兄を偲びながら、この天地を舞台になにかを成し遂げてみたい・・・」。そんな想いに駈られていた。その第2のチャンスが、陸軍幼年学校受験のあとにやってきた「陸軍軍属として内蒙古政府への就職」という願ってもない募集要領だった。学歴は当時といえば高等小学校2年修了、または旧制中学2年中退という、至って実利性の濃厚な職場だった。そして、もう一つ残されている、そのころの私たち少年の憧れともいえる登竜門は、やはり中学4年生修了の時点で、陸軍士官学校か海軍兵学校に受験するか、あるいは、陸海軍の少年飛行兵(のち、多くの若者たちが特攻隊員として太平洋諸地域であたら犬死の如き自殺行にかり出されていった)に志願していくことにあった。
しかし、私はこれらの道のいずれにも進ことができす、そのころ亡き両親や兄に代わって私の養育の親権者(後見人)であった伯母の家の事業(私の従兄が経営する鋳物工場=そのころ軍需工場の指定を受けて、主として小型船舶のジーゼル機関の部品や海軍航空隊の練習機関エンジンの部品等を生産していた)の手助けをするよう親族一同の要請もあって、静岡県立工業高校への進学を勧められていた。 とくにそのころ陸軍の現役応召で中国大陸に参戦していた従兄が除隊してきていたが、この従兄が陸軍の航空隊(通信隊兵士)に在籍していたにもかかわらず、なぜか私の「少年飛行兵」への志願には猛烈に反対していた。そうした状況の中で、私は止むを得ず家業の手助けしながらも、工業専門学校への進学だけは拒否し、なんとかチャンスをみつけて陸海軍少年兵への志願だけは諦めなかった。昭和18、19年ごろに入ると、当初は優勢であるかにみえた太平洋諸地域の戦況は、米国の巨大な物量作戦と連合国側の猛反撃によって各地で敗退しつつあった。勿論、このころの新聞、ラジオで報道されていた陸海軍報道部、大本営発表の戦況では、そののち明らかにされているように、まったくの「ウソ、でっちあげ」で固められていた。
すでに昭和17年4月18日には、ひそかに太平洋上を日本本土の至近距離にまで接近してきた米軍航空母艦から飛来してきた爆撃機8機が、白昼堂々と東京上空に姿を現し、市内各所に爆弾を投下して悠々と中国大陸基地へ逃走するという事態が惹起していたし、同年6月初めには、太平洋上の日米両軍にとっては戦略上の重要拠点とされたミッドウェー島の攻略作戦では、日本軍の敗北に終わっていた。この作戦には、わが帝国海軍が「世界最強と自負」していた連合艦隊の主力が投入され、いわば今後の戦局を左右する起死回生の“大バクチ”であっただけに、これによって受けたわが軍のダメージは、まさに想像を絶するものであったといえた。 南太平洋におけるソロモン群島の「ガダルカナル島守備隊の敗退」(多数の餓死者を出した悲惨な戦い)を当時の大本営発表は、これを次期作戦のための転進であるとしてゴマ化したが、兵器・爆弾・食糧等の欠乏のため、ほとんどの兵士たちが“自決”したり、餓死したりした悲惨の状況は、辛うじて同島から脱出することのできた兵士たちの口から一般国民に伝えられて、すでに日本軍はあらゆる戦場でのっぴきならない修羅場に追い込まれていることをヒシヒシと感じていた。
18年5月には、北辺のアリユーシャン列島のアッツ島、ギルバート群島のマキン、タラワ島につづき、翌19年2月には日本列島にほど近い南洋のマーシャル群島のクエゼリン、ルオット両島に米軍の猛攻が加えられて、日本守備隊はいずれも敗退し、当時いわゆる太平洋における日本本土の“生命線”と呼ばれていた地域が、次から次へと敵の手に落ちていった。こうした戦況の激化とともに、私たち一般国民のあいだには、もうどうしようもない悲壮感が漂いはじめ、国内から身体強健の若者たちはほとんど戦場に駆り出されて姿を消していき、40、50歳代の年配者たちも、軍需工場や特種な職業に就労する人たち以外は、すべて戦場へと派遣されていた。
昭和19年6月、「日本の絶対的な本土生命線」とされていた、南方洋上にあるマリアナ群島のサイパン、テニアン両島に米軍の大陸上作戦が展開され、太平洋戦史のなかでも、特筆に価する激烈な日米両軍による“死闘”がくり返されたすえ、日本軍の海軍連合艦隊、陸海空軍のほとんどの主力が、ここに潰滅された。守備隊はもとより在留邦人(婦女子を含む)の大半が“自決”(=玉砕)するという悲惨な結末となり、さらにはひきつづいてフリッピンのレイ島への米軍の反攻によって、いわゆる「リターン・マッカーサー」のための「日本列島大包囲網作戦」が確立された。
≪プロフィール> 織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。
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