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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2019年02月21日13時06分掲載
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社会
私の昭和秘史(5) 国華隊・渋谷大尉の遺書 『父に逢いたくば蒼天をみよ』 織田狂介
こうした状況の中で、昭和20年6月11日午後5時10分。冒頭で述べておいたように鹿児島県知覧・万世の両陸攻基地から、最後の特攻隊となった11機が、沖縄に向かって飛び去っていった。日本陸軍航空隊による「最終の特攻出撃」が決行されていたわけである。文字どおり「往きてもはや再び還らざる第64振武隊国華隊」の若き勇士たちである。この時の情景を本稿冒頭で引用した神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』の文章の中から、再び紹介しておきたい。ちなみに触れておくが、このころ「特攻出撃」を決行していた航空機は、陸軍も海軍も、その殆どがボロボロの機体とエンジンとで、いずれも“廃棄寸前”のものばかりであったという。「飛ぶたびに鋲(びょう)がゆるみ、燃料タンクからは油が漏れる状況だった」というし、これらの特攻機を見送る地元の女子学生や近隣の主婦たちが、そうと知って涙と共に彼らの操縦席を「草花で埋め尽くし、手製の人形で飾ったのが、せめてもの死に赴く若者、少年兵たちへの精一杯のはなむけであったろう・・・」と、神坂次郎氏も、瞼をうるませながら書き綴ったに違いない。そんな情景を描写しているのが、彼の著書の中の短編の一文、『第11話・父に逢いたくば蒼天をみよ』である。
「・・(前略)この第ニ小隊11機は、6月11日午後5時10分、第三小隊、第一小隊と相次いで離陸し、基地上空でゆrやかに編隊を組み、一路、沖縄にむかった。この日、知覧から出撃するもの3機。以後、万世・知覧からの特攻出撃は絶える。 南方海上に出た国華隊の行く手に、黒い波のような雨雲が押し寄せてくる。陽が沈むとともに、視界は急激に悪化した。雲は厚く強い雨が降り出してきた。その叩きつけられるような豪雨のなかで、第一小隊の鈴木伍長機が黒煙を吐いて脱落・・・つづいて機関に故障を生じた橘曹長機もまた、さきを飛ぶ渋谷隊長機、岸田伍長機を見失って、枕崎裏の泊地・中城湾嘉手納上空に到着したものは9機。「我れ突入する」の無電を発したものは、僅か3機しか過ぎなかった。 ―この最後の特攻機、国華隊の果敢な行動は、航空総軍司令官によって「全軍に布告」され感状を与えられたのは、20日後の7月1日のことであったが、その1枚の紙片にもひとしい「感状」よりも、まことに清々かっだのは、渋谷大尉を中心とした隊員たちのー 「われは石に立つ矢、ただ出撃あるのみ」と念じて死地に赴いた20歳代から17,8歳の若者、少年兵たちのひたむきな祖国愛と、不退転の使命感であった。 「特別攻撃機」という組織は、一般の軍事組織のように、いちおう隊名や隊長が定められているものの、厳密にいえば、それは先導者を持つ殉国の同志の集団といったほどの意味でしかない。従って隊長であっても、人事や賞罰などの統括権は存在しない。それ故に「特別」なのである。階級の上下はあっても、すべてが同志なのである。この「同志愛」がなければ、連帯感の昇華がなければ、「特別な死」の決意など、ながく持ち続けていけようはずはなかった。 国華隊の隊員たちは、すべて18,9歳から、23,4歳までの若者たちであった。彼らは師とも兄とも仰ぐ歴戦の名戦闘機乗りだった渋谷健一大尉の行動そのままに、出撃にあたっては、殊更に「遺書」に残すこともなく、まるで普段の飛行訓練にでも出かけるように、永訣の盃を酌み交わし、同期の桜の歌を高吟し、たがいに肩を叩きあって悪天候下の沖縄海域の米機動部隊の中に突入していったのである。
「われは石に立つ矢・・・」なんという至純・至高の言葉だろうか。これが僅かに18、8歳から20歳の若者たちの心であり魂であったのだと思うとき、私はただわけもなく哭 くしかはないのである。
いま、40年という歴史の歳月を濾して大平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯があった。祖国の危急を救うために死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを「石つぶて」の如く修羅に投げ込み、戦況不利をみるや戦線を放棄して遁走した四航軍(註:陸軍第四航空軍団)の首脳や、六航軍の参謀や将校たちが、戦後ながく亡霊のごとくに生き続けて老醜をさらしている姿を・・・。 それに比べて、この国華隊・渋谷健一陸軍大尉(32歳)が、わが子に与えた「最後の手紙」の、なんと清々しく美しいものであることだろうか。それには、死地に赴く者のいささかの迷いも悔恨もなかった。いかに「祖国の危急存亡のために」とはいえ、こうも清かかな心境で潔く死ねるものなのであろうか。 その但し書きには『父より倫子ならびに生まれてくる愛し子へ』とあるところをみると「倫子さんとは新婚まもない若い夫人」のことであり「愛し子」とは、ひょっとしたら、まだ顔をみしこと数回しかないであろう生まれたばかり幼な児であるのかも知れない。 ――「前文は略す)・・・父は選ばれた特別特攻隊長となり、隊員11名、年端僅か20歳に足らぬ若桜たちと共に決戦の先駆となる。死せずとも、戦いに勝つ術あらんと考ふるは常人の浅墓(あさはか)なる思慮にして必ず死すと定まりて、それにて敵に全軍総当りを行ひて尚かつ攻戦局の勝敗は、神のみ知り給ふ。真に国難と謂ふ可きなり。父は死しても死するにあらず、悠久も大義に生くるのみなり。一、寂しがりやの子に成るべからず。母あるにあらざるや。父もまた幼少に父母病ひに亡くしたれど、決して明るさを失わずに成長したり。まして戦ひに出て壮烈に死せりと聞かば、日の本の子は喜ぶべきものなり。―父を恋しと思わば空を視よ。大空に浮かぶ白雲に乗りて父は微笑ひて迎ふ。ニ、素直に育て。戦ひ勝ちてても困難は去るにあらず。世界に平和おとずれて万民太平の幸を受くるまで懸命に勉強する事が大切なり。ニ人仲よく母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対しての最大の孝行なり。父は飛行将校として栄えの任務を心から喜び、神州に真の春の訪れを招来する神風たらんとす。皇恩の有難さを常に感謝し、世は変るとも、忠孝の心片時も去るべからず。(中略)書き置くこと多けれど、大きくなったるとき、時によく母に聞き、母の苦労を知り、決して我儘せぬよう望む・・・(以下略)
「天皇の名において結成されたわけでもないのに―なぜ最後には天皇の名代が、 あたりをはばかるようにして『特攻隊』の解散を布告し迫ったのか・・」 (終戦を前に竹田宮恒憲王の不可解な行動) ――『特攻隊は荷厄介な有害の存在となつた・・・』とは何ことであるか?
神坂次郎氏は、その著書の結びのなかで、憤りと哀しみをこめながら、次のように書いている。 ・・・8月になると、知覧の上空を連日のようにアメリカ軍のグラマンF6や、ノースアメリカンP51が乱舞し、逃げまどう一般市民の人々に機関砲弾を叩きつけた。そして、12月の昼まえ、超重爆撃機B29の編隊30機が来襲し、飛行場周辺に猛爆を加えた。(略)「戦争(いっき)に負けた」「いまにアメリカがきて皆殺(ずるツ)さるっど」。8月17日、笙子や友人の森愛子、寺師さと、松田フヂエ、楢原ツヤ、塗木チノ、枦川ムツ子、塗木トシ子、清藤良子たち(註:特攻隊の若者たちの最後の身の回りの世話をした知覧高女の当時3年生だった仲間)は、町の人たちに混じって後岳(うしろだけ)の村落に逃げた。 そんな混乱のなかで、特攻隊の生き残りたちは真っ先に「解散」を命じられている。福岡の第六航空軍司令部に、東京の参謀本部から「天皇陛下の名代として」竹田宮恒憲王(陸軍中佐)が派遣され――「直ちに特攻隊を解散せよ」と伝えてきたのである。無条件降伏を宣言した政府および軍部首脳にとっては、いまや「特攻隊などとうものは大日本帝国にとって荷厄介な、有害無益な存在でしかなかった。政府、軍首脳たちは、おのれが生きのびるためには、寸秒も早く、“特攻”の存在を抹殺し、口を拭っていなくてはならなかったのであろう。 ――特攻隊員たちが去っていった後、滑走路の西端の、かって特攻機が次々に離陸していったあたり、40機余りの飛行機が並べられ、飛行場のあちこちから軍用書類や飛行服、落下傘などを焼く黒い煙りが立ちのぼっていた。まだ残留している特攻隊員がいるのか、ときおり、激しい機銃掃射や爆発音がひびいてきた。通信兵の霜出茂は、その音を特攻隊の若者や少年たちが“誰かに”“何かを”訴えている叫び声のようだと思った。 (おんなじ敗くるなら、なぜ半年まえに・・)そうすれば、誰も死なずにすんだのだ。そう思うと茂は、躰(からだ)の深みからねじりあげてくるような口惜しさをおぼえるのだった。無線通信兵の茂の軍務は、出撃する特攻の誘導だった。無電機を胸に抱き、特攻隊機の出発点に立った霜田茂は、戦闘指揮所と連絡をとり、翼の右下に補助タンク、左下に250キロ爆弾をかかえ、よろよろと滑走してくる特攻機に、「機首、右に振り過ぎております」などと指示を与えてきた。知覧出撃の最初の特攻以来、茂はおびただしい数の隊員たちの「死への誘導」を勤めてきた。(おンなじ敗くるのなら・・・)風に乗って、銃声がまた聞こえてくる。茂は深い息をすると、円匙(スコップ)をとり、足もとの土を握り、さらに深く掘り、その手にした無電機を埋めた。 「さようなら」そして、足ばやに飛行場を離れ、復員兵の一人となった。(以下略)
≪プロフィール> 織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。
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