(以下のテキストは哲学者のパトリス・マニグリエ氏が1月13日にフランスの新聞ルモンドに送ったものですが、2月28日になってルモンドに掲載されました。今回、マニグリエ氏の承諾を得て、日刊ベリタに翻訳を掲載します。ただし、ここに訳したテキストはルモンドに掲載されたテキストよりも少し長いバージョンだそうです)
■ルモンド(2019年2月28日)
https://www.lemonde.fr/idees/article/2019/02/28/patrice-maniglier-une-insubordination-de-masse-des-gouvernes_5429245_3232.html?fbclid=IwAR1RBbVmhFYLwGAzdraRViOcaC8Ft180RzlWLeLygxnkJsMTOXO8uVoHk7w
●「黄色いベスト」による革命の可能性
以下に述べることはすでに十分に明らかだろう。「黄色いベスト」(gilets jaunes) という運動はフランスにおいて〜1968年の五月革命以来、いやさらにアルジェリア独立戦争以来と言ってもいいのだが〜本物の革命の可能性を明確に示した、ということである。
この革命という言葉については共通理解が必要である。革命とは権力に変化が起こることである(それが政治権力の中枢にいる人々が他の利益のために追い出される場合であれ、権力構造自体が変革される場合であれ)。そしてその権力の変化が統治される「マッス」(masse:大衆、塊、集団)による不服従によってもたらされる場合である。革命的な状況というものは2つの政治的正当性を主張する勢力が妥協の余地なく対峙した時に生み出される。一方の政治権力の正当性は選挙という合法的な方法で手に入れた正当性であり、もう一方の政治権力の正当性はその選挙で選ばれた政権に対抗する巨大な大衆(マッス)の決意から生まれた政治的な正当性である。そして後者は対抗運動によってもし必要とあれば自らの政府を形成するに至る。
ここで「大衆」(マッス)という言葉が意味するものを理解することが大切となる。それは単なる量的な意味というだけではない。ここでの「大衆」という言葉の意味は運動が社会的、文化的、思想的に様々な層の人々を集結させ、この上さらにどんなアイデンティティの集団を加えたらいいか思いつかないくらいの十分に多様な集団を凝集させたという事実にある。それゆえに、この「大衆」は人数的な意味での多数派である必要はない。必要なことはそれ(大衆)の実体が予見できないものでなければならないということだ。
実際、「黄色いベスト」は人々を不安にさせる。というのも、彼らが誰なのか人々にはその実体がわからないからだ。「黄色いベスト」は人々が彼らを分裂させる前に、社会的アイデンティティをその都度、自ら素早く変化させている。(様々なアイデンティティの人々を包摂するために)この運動の中心には、お互いに望ましくない要素も当然ながらある。それは当然のことながら不安の種であるのだが、同時にそれこそが革命の可能性を示す証拠でもあるのだ。
イタリアの思想家、アントニオ・グラムシはマルクス主義の理論の中に、ヘゲモニーと言う言葉を導入してこのような現象を説明した。ヘゲモニーとは革命の進捗の過程の中で、ある特定の階級( グラムシは1917年のロシア革命の労働者階級を考えていた)のメンバーが他の階級の様々な集団(たとえばロシアの農民)の利益をも同時に担うことを意味するのに使われたのだ。
哲学者のエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフはヘゲモニーと言う言葉を階級にとどまらず、すべてのアイデンティティを持つ対象にまで拡大した。革命の可能性を秘めた運動は常にいわゆる「ヘゲモニックな過程」である。2016年の労働法改正への反対闘争ではまさに、そのような過程が現実に起きた。この過程は「立ち上がる夜」や「頭の行列」といった運動の中で具現化された。それは抗議の当初の発端であった労働組合や政党というアイデンティティをはみ出る形となった。
しかし、そのプロセスはまだ弱かった。というのも、当時「立ち上がる夜」などの運動に参加した人々の集まりが未だ十分な不特定性を備えた巨大なマッスになるまでには至っていなかったからだ。本当に知っていたかどうかはともかく、人々は運動に参加した人々が誰なのか知っていると思っていた。一方、「黄色いベスト」においては逆に、ヘゲモニーの過程は非常に強い。というのも、「黄色いベスト」は年金生活者まで広範な人々を巻き込んでおり、その大衆動員の範囲には見通しがたいものがあるからだ。もし、「黄色いベスト」が「民衆」(peuple)というものを体現しているのであればそれは多数派であるからではなく、それが特定できないからなのである。
革命的な状況には3つの時間性が組み合わされている。1つは構造的な発展、もう1つは状況の局面、最後は実際の出来事だ。これら3つの中でエマニュエル・マクロンは実際に起きている危機としてあるのは第一の構造的問題だけだというふりをしている。2番目の革命的局面が到来しつつあることについては注意深く目を背け、そして実際の革命が起きないように人々の方向をずらそうとしている。
問題となっている基本にある構造は、過去何年もの間、統治者と被統治者の間で蓄積されてきた互いの不信感に基づくもので、多くの国々でも同様の事態が起きているが、とりわけフランスで顕著なものである。この信頼の欠如という危機については様々な解釈が与えられている。政権側にとっては「構造改革」が実行されていないからだ、ということになる。一方、私自身も属する大衆にとっては、それとは逆に、「改革」と言うのはネオリベラリズムの改革であり、その改革こそが政治不信を深めているということになる。ネオネオサッチャリズムの方向に政治を進めていくことは、今日の政府には危機を解決できず、逆に単に危機を悪化させるだけだという新自由主義の政治的信念に資するのみであるのだ。
状況はこの場合、エマニュエル・マクロンの姿勢に起因していた。つまり、マクロンは2017年の大統領選挙と国会議員選挙で勝利したことで、彼が提唱していた鳴り物入りの構造改革を導入することに十分な正当性が付与されたはずだと信じたのだ。人々が感じるマクロンの「軽蔑」や「傲慢」は二次的なものに過ぎず、おそらくマクロンが不器用なので事態がより悪化しているのであろうが、問題の核心は彼の激しい政治的信念にあるのである。しかし、共和国大統領は彼の政治的信念が今日の状況を起こさせていることを飛び越してしまい、彼自身の独自の「黄色いベスト」に関する分析から、まっすぐに構造改革の必要性へと短絡していくのである。
だが、(革命の)ヘゲモニックな過程は<容器を満たした水があふれ出る>とか、<火薬に火をつける>などといった出来事がなくては発現しない。チュニジアにおいてはモハメド・ブアジジの焼身自殺だった。フランスにおいては燃料税だった。より一般的な問題性を帯びかつそれが象徴的である場合に限り、1つの事件がヘゲモニックな過程を起動させる。それにより、さらにもう1つの過程へ、そしてさらにまた次の過程へ、と連鎖していき、最後には多様な人々が組み合わされた大きな集団を揺るがすに至るのだ。
今回、燃料税の増税は財政の不平等の象徴として現れた。そしてそれは指導者階級の庶民に対する無関心の象徴となった。さらにそのことが、<民主主義の>システムの破綻の象徴となり、あるいは地方の抱えている問題の象徴となった、などなど。こうした一連のヘゲモニックなプロセスにおける多面性の象徴を人々は「黄色いベスト」に見出す。この運動の究極の意味が何であるかは、一連の様々なプロセスをどう結びつけるか、というその方法1つにかかっていると言えよう。
エマニュエル・マクロンはこれらの一連の抗議運動に対して、燃料税の値上げを中止したり、庶民の購買力を多少なりとも一時的に引き上げようとしたり、市民の討論を起こしたりした。しかし、これらの方法は1つの単純な理由から十分だったとは言えない。つまり、それらのことをマクロンが行ったとしても新自由主義の方向に向かう今の政治の本質を変えるものではないということだ。人々は馬鹿ではなかった。政府がこのように短期的に譲歩することで結局、より長いスパンにおける人々の服従を買おうとしているのだと言うことを人々は十分理解していたのである。明らかに黄色いベストの人々はこの取引を受け入れなかった。それは理解できる。
では、こうした一連の条件の中で何が起きうるのだろうか?最初の仮説はこうだ。政府が譲歩と抑圧をミックスすることによって、反対運動の参加者たちを疲労させることができる、ということである。エマニュアル・マクロンが賭けているのはこの道だ。しかしながら、再び元気を取り戻した今週末の運動を見ると、マクロンの戦略は失敗するリスクがある。そこで2番目の仮説はこうだ。政権が本質的な意味で妥協を受け入れるということだ。つまり、新自由主義を改め、可能な代替策を開始することである。しかし、これは新自由主義改革こそ自分自身の歴史的使命であるというマクロン自身の見地からすると、あまり実現しそうにない。最後に残るのが第三の仮説だ。大衆(マッス)の不服従の闘いが〜参加者たちの代償がどんどん高まっても〜ますます大きくなり、最後に単純に国家が統治不能になる地点まで至るということである。
もちろん、このような状況になると、政権はリュック・フェリーの助言に従い、軍隊を出動させるだろう。だが、結果が期待通りになるかはわからない。というのは反乱する側が軍事的に政権を打倒する、ということではない。そうではなく、私たちの政治文化においては、象徴的な代償はあまりにも高くつく、ということだ。その損失に耐えられる政府はないだろう。それでも、未だ見通しが不透明で何1つ断言することはできないのだ。
では何が、残されるのか?非常に単純である。このような統治不能性の危機は私たちの環境では投票で解決できると言うことである。黄色いベストの運動は今こそ機敏さを示さなくてはならない。思うに投票によって決着をつけることを人々が受け入れることが必要だ。というのも、投票を拒否すると、独裁の意思を持っていると見なされ得るし、さらに運動が爆発的に広がるリスクもあるからだ。だが、正当な民主主義の名においていくつかの前提条件を要求することも必要だろう。というのも今日存在する選挙制度は民主主義にとって十分に理想的とは言えない、ということを主張することはまったくもって当然だからだ。正当性に欠けると思われている仕組みを支持することで権力の正当性を再構築することはできない。だからこそ、少しでも公平性を有する規則を要求しなくてはならないのだ。私は少なくとも2つのやり方があると思う。
まず最初に、国民生活において大統領選挙が最も重要な瞬間だという考えを否定することである。仮に選挙が最も重要だとしてもそれは国会議員選挙であるべきで、大統領選挙ではない方がよい。政治上の真の責務を受け入れるのは国会議員であるべきだ。そういうわけで憲法が争点になる場合は、それがみんなに開かれた選挙戦の中心に位置するべきである。 2つ目は技術に関することであり、ただちに改革を要するものである。政党の政治資金の改革で、寄付金の上限をかなり下げることである。これはジュリア・カジェが提案していることでもある。その狙いは富豪たちが選挙結果を決めることがないようにするためだ。選挙制度については、政治への信頼を取り戻すために、他にもいろいろ改革すべきことはたくさんある。
私たちはマクロンの冷笑主義と冒険主義の混交が作り出した革命的な状況の高まりによって、問題からの出口を見出すことが期待できるだろう。しかしながら、黄色いベストのような運動が高まった場合にどのような形で再び合法的な政府を据え、そして最低限の平和を回復できるかは、定かではない。それら2つのことはさまざまな闘争と、その闘争を通して得られた無数の経験やノウハウや認識などを経て得られるものである。(選挙に当選して)政治権力を合法的につかんだというだけで民主主義の正当性のすべてを独占できると思ったら大間違いだ。。共和国大統領がそのことに気がつき、「黄色いベスト」が持つ革命的な可能性を真摯に受け止めることはよいことである。
パトリス・マニグリエ(哲学者 パリ・ナンテール大学)
Patrice Maniglier
翻訳:村上良太
※エルネスト・ラクラウ(Ernesto Laclau, 1935-2014) アルゼンチン出身の政治理論家。『現代革命の新たな考察』や『民主主義の革命――ヘゲモニーとポスト・マルクス主義』などの著書がある。
※シャンタル・ムフ(Chantal Mouffe, 1943- ) ベルギー出身の政治学者。『政治的なるものの再興』や『左派ポピュリズムのために』などの著書がある。
※リュック・フェリー(Luc Ferry, 1951-) フランスの哲学者、政治学者、政治家。著書に『68年の思想』や『神に代わる人間 ― 人生の意味』などがある。
※アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci,1891-1937) イタリアのマルクス主義思想家、イタリア共産党創設者の一人。
※ジュリア・カジェ(Julia Cage , 1984-) フランスの経済学者。『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』などの著作がある。
■パリの「立ち上がる夜」 フランス現代哲学と政治の関係を参加しているパリ大学准教授(哲学)に聞く Patrice Maniglier
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201605292331240
■「レ・タン・モデルヌ誌」(Les Temps Modernes) サルトル、ボ―ヴォワール、メルロー・ポンティらが創刊 今も時代のテーマを取り上げる パトリス・マニグリエ(Patrice Maniglier パリ大学教授・哲学者)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201606241454415
■エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロと大阪、そして春 パトリス・マニグリエ(哲学者)”Eduardo Viveiros de Castro, Osaka and Sakura ”Patrice Maniglier
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702211840272
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