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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2019年03月21日23時19分掲載
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社会
私の昭和秘史(9) 祖父から父へ そして私 黙ってはいられない 織田狂介
昭和11年2月26日早暁、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊(註:近衛とは、主として天皇一家が住まわれる宮城一帯の守備、護衛に当たる人々のことを云う)等の22名の陸軍青年将校たちは、部下である千四百余名の下士官・兵を率いて反乱を起こした。これらの部隊は首相、蔵相、宮内大臣、侍従長、陸軍教育総監の官私邸、警視庁、朝日新聞社等を襲撃し、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた。元老の一人である西園寺公望、牧野伸顕前内大臣も襲撃の目標とされていたが、不成功に終わった。岡田啓介(海軍大将)首相は、新聞などでは即死を報ぜられたが、のちになって秘書官の身代わりによって助かったことが判明。反乱部隊は首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部を含む永田町一帯を占拠し、川島陸軍大臣と交渉して己たちの「要求」を実現しようとした。
その「要求」とは、――「蹴起の趣旨を天聴(天皇の耳に入れる)に達すること、皇軍相撃(天皇の軍隊同士が戦うこと)を避けること、統制派(註:陸軍内部は、青年将校たちが支持する皇道派と、統制派の2派に対立分裂していた)の幹部を逮捕または罷免すること、満州地区におけるソ連軍を威圧するため荒木貞夫大将を関東司令官に任命すべし」という内容のものであったが、この段階ではそれ以上の具体的な「革新」政治の計画は示されていなかった。とにかく当面の目標として彼らは、いったん青年将校たちが蜂起すれば、「まさか軍首脳が一般国民の敵となって天皇側近の重臣や元老たちと結託するはずはないだろう」という情況判断に立ち、われわれ青年将校がクーデターに成功さえすれば、あとのことは軍上層部が有利に事態を収拾するという判断に、すべてをかけていた・・」(『昭和史』岩波新書)
私がこの『2・26事件』と亡父との関係、さらには亡父の生前における縁戚関係(祖父やそのその兄妹たち、つまりわが家の系譜など)について、改めて深い関心を抱くことになったのは、実に戦後間もなくのことであった。ここではそのことについて簡単に述べておくことにするが、これがまた云ってみれば、とても普通一般の常識や社会的感覚では理解できないような情況であったことに世間の人々はあっと驚くだろう。
あの太平洋戦争の敗戦直後、私は文字通り、まるで気が狂ったかのように静岡市の養家先から出奔し、小さなボストンバックに“白鞘の短刀”を忍ばせた柔道衣と僅かな着替えを詰めただけの軽装で、折しも太平洋戦争終結に反対して立ち上がり、示威行動を展開していた『七生義軍』への参加を決意して、神奈川県厚木町(今の大和市)にあった海軍航空隊の基地を訪れていた。このことは、私が連載していた『艶楽書館』(昭和52年3月〜10月号:みのり書房刊)に詳しく記述してあるが、結局この企ても、当時の海軍厚木航空隊・海軍大佐小園司令ら一部の小壮軍人たちの独走に終わり、さらに私を中心とする数人の血気盛んな若者たちの手による「米連合司令官マッカーサー元帥暗殺計画」に発展しようとしていたのだが、これも説得されて中止となり、ここで初めて私は多くの復員軍人たちと同じように、どうしようもない挫折感を味わっただけで、折柄のうそ寒い廃墟の師走の巷に放り出されることになった。
この事件は、数年のちになって私の親戚縁者たちにも知られるところになるのだが、これによって私は父母の縁者たちから、はっきりと「絶縁」を宣言される。しかしこの時、たった一人の叔父(父のすぐ下の弟)だけは、なんとなく私の気持が理解していたようで、「やっぱり、お前もやはり同じような血をひきずっていたんだよ。まぁ、あまり落胆しないで、これからさきを生きていくことだ。何かの時には、力になってやるよ・・・」と、さりげなく呟いていたことがある。この叔父とは、そののち私が「月刊ペンの編集長」という仕事についていたときにも、東京・日本橋の『丸善』(たしか経理部長だった)に在職して、なにかと励ましてくれていたのを覚えている。
その叔父の話してくれたことを、かいつまんで述べてみると、「お前の父は、かなり血の毛の多い若者だったが、私たち(つまり叔父たち)の父は、それこそ近隣でも有名なほど血気さかんだった。私たち一族は、知っての通り、徳川譜代の下級武士として、先祖以来ずっと大御所(徳川家康)とともに駿府城に配属となり、第15代将軍慶喜公の時代には、「絵師」として大奥の屏風やふすま絵などの修復に当たっていた。ところが、父の時代、明治維新ということで順風満帆な御家人生活が終結した。このとき勃発したのが、上野彰義隊の反政府軍活動だった。これに私たちの父は積極的に参加して時代に“反逆”しようとしたんだ。もちろん、このことのために生涯不運をかこち、郷里にあった家屋敷もすべて手放して、一家離散の悲運に遭う。この私たちの“血”は、どういうわけか、兄妹4人の中で、とくにお前たちの父に強く残流していた・・・」ということになる。この話は、もちろん私にとっては文字通りの晴天の霹靂であった。
ここまでの情況を補足すると――やはり、あの『2・26事件』前後における父の不可解な言動と、私自身の微妙な感情の揺れ動きかたが、自ら納得できてくるから不思議だ。つまり、私の父はあの時の2・26事件に関わった青年将校たちの言動が、本当に当時の資本主義体制の間違いや矛盾を本気になって糺そうとした「世直し運動」としての純粋な蹴起であったのか、深い関心を抱いていたからに他ならなかったのではないか・・・ということである。私は、戦後から今日の時代にかけて、ずっとアウトローのジャーナリストとして生き抜いてきたが、その生きざまの基調は今も変わぬ「世直し運動」としての一環の中にあったと信じている。あの昭和のはじめから、大平洋戦争中のような一部独裁的権力者のほしいままに操られるような、そんな世の中であって欲しくないと思っているのである。
≪プロフィール> 織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。
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