日本国憲法は1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られた「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。
ときに革新の側から礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今読み直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのか分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。
15章からなるもので、これまでいくつかの章を論評してきた。今回は、「新しい憲法の話 第7章 基本的人権」を読む。この章はやや長い。そして、「天皇」の章のような問題は少なく、もちろん、評価すべき点も多々ある。しかし、人権の擁護、あるいは個人の人格の尊厳こそが憲法の至高の価値であって、その価値の体現のために憲法が編まれているという基本視点が希薄で、迫力に欠けるところが惜しまれる。
「くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけたゞれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き/\としげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、たゞ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。」
人権解説の導入が、空襲被害の跡地から始められていることが示唆的である。期せずして、「新憲法」制定の時代背景を物語っている。あらためて思う。憲法は悲惨な国民の戦争体験から、焼け跡に生まれたのだ。
焼け跡の草の生命力は、天賦人権論を意識してのことなのだろう。ここから説き起こして、「人間の生存をだれもさまたげてはなりません。」とした上、自由と平等を説いている。その語り口に特に異論はない。
「人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。」
自由の説明なのだが、やや物足りない。憲法が、個人の自由と国家権力との対抗関係を基軸として構成されていることの認識が、筆者に希薄なようである。そこが叙述に迫力を欠く根源となっている。
「またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。」
平等という理念の解説である。「人間である以上はみな同じ」「人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく」「男が女よりもすぐれているということもありません。」と言う。中学1年生の読み手なら、これを読んで「天皇はどうなの?」と疑問をもつに違いない。
「天皇は戦争前は神さまだったけど、戦争に負けた後人間宣言をしたはずでしょう」「天皇だって人間だから、人間の上のもっとえらい人間であるはずはないよね」「でもどうして、天皇は国民と平等でないの?」と思うのが当たり前。この教科書は、その当然の疑問にまったく答えようとしていない。
「國の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に與えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。」
この叙述のわかりにくさ物足りなさは、人権が国家に対する権利であることが明記されていないところにある。人権を「保障する」とは、主権者国民の宣言として、国家に人権侵害をしてはならないと命令しているのである。国家性悪説からの立論をカムフラージュしようとする筆致が、ことがらの本質をぼやかしている。
「しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の國の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい國民にならなければなりません。國はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で與えられているのです。この場合はみなさんのほうから、國にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。爭いごとのおこったとき、國の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。 それからまた、國民が、國を治めることにいろ/\関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。國会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、國や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。」
人権の分類を「自由権」「請求権」「参政権」と三分しているようだが、その分類の当否は問題ではない。しかし、なぜきちんと社会権の具体的内容にまで言及しないのだろうか。25条の生存権、28条の団結権などは、新しい世代の主権者に特に知ってもらう必要があるだろう。文部省は、労働者の団結権や争議権、経済弱者の生存権などは教えたくなかったのだろうか。
「みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。」
「みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。」という表現が引っかかる。人権は、あるいは個人の尊厳は、けっして憲法が創設したものではない。この教科書の著者は、「みなさんにりっぱな強い権利を与えた」のは誰だと考えているのだろう。まさか、「国家」ではあるまい。もしかしたら、前主権者である「天皇」からか? いくらなんでもそれはない。また、「憲法」でもないだろう。結局は、憲法を制定した「主権者国民」とならざるえない。しかし、国民が国民から「基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました」という言い回しは不自然ではないか。人権は、前憲法的な自然権的存在として想定されなければならない。
「こんなりっぱな権利を與えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。國ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。」
この説教口調がいただけない。おそらくこの著者には、人権なるものが、憲法制定と同時に、どこかから国民に与えられた、という意識があるのだと思われる。これが時代の制約であり、当時の教科書としてやむを得ない内容だったのだろう。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。「勝ち取った人権」と「与えられた人権」と、翻訳して大きな間違いはないものと思う。
この文部省の教科書の著者にとっては、目の眩むがごとき「新憲法」の人権保障条項は、「勝ち取った人権」との認識ではなかったのだろう。「与えられた人権」としての遠慮がその叙述にあらわれている。
いま、主権者である国民が人権を語ることにが、誰に遠慮も要らない。とりわけ、国家権力やそれを担う者にも、そしていうまでもなく、天皇や皇室にも。 (2019年3月25日)
澤藤統一郎:弁護士
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.3.25より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=12292
ちきゅう座から転載
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