「イマージュ」という言葉、時々耳にするけれど、イマージュってなんだっけ? イメージとどこか違うの?・・・この言葉にはそんな戸惑いを感じてきた。それに対して初めて、「あ、違うんだ」と感じさせてくれたのは日仏会館で行われたシンポジウム「イマージュと権力 〜あるいはメディアの織物〜」における小林康夫氏(青山学院大学教授)の言葉だった。
「イマージュという言葉が私の人生を変えた」と。
小林康夫氏は美術評論家・宮川淳の著書「鏡・空間・イマージュ」に20歳の頃触れて大きな影響を受けたという。もう50年近く前のことだ。小林氏はさらにミシェル・フーコーの哲学に出会う。フーコーが著書の一冊「言葉と物」で語っていたのは、絵画の中に描かれた「鏡」である。ベラスケスの絵「ラス・メニーナス」の中の鏡には「王」が、マネの絵「フォリー・ベルジェールのバー」の中の鏡には「近代」を象徴するモダンなカフェの店内が映り込む。これらの絵の中の鏡にその時代を象徴するものが描かれている。イマージュは鏡でもある。宮川淳、フーコー、そして吉田喜重監督の映画「エロス+虐殺」も引用しながら、「イマージュ」という言葉がのっぺりした単なる「映像」という概念でなく、そこに主体のあり方、あるいは主体の否定といった自己に関わる視点が存在するということのようである。単にカメラが外部の現実を映し出すというだけでなく、カメラは鏡でもあり、見ている人の存在の痕跡もスクリーンや画布に映り込む。小林氏の考えを私が正確に理解できたかどうか心もとないが、私の解釈ではそんな話だった。だから、映像には自己否定、という契機も含まれている。
今回のシンポジウムをデザインした映画評論家のマチュー・カペル氏の狙いは当たったと思う。朝一番で登壇した小林教授の「イマージュ」という言葉に対する「熱さ」は聴衆をひきつけた。このシンポジウムが開かれた背景には恐らく、現在、メディアがデジタル技術の進化で大きく変わりつつあることがある。携帯電話を含めて夥しい数の写真や映像が日々撮影され、ソーシャルメディアを埋め尽くしている。youtubeにも多量の映像がUPされている。こうした夥しい映像やクリップはいったい人類や社会にとってどんな意味があるのか。そして、そこにはどんな自己が、どんな時代が映り込んでいるのか。
17日のシンポジウムでは小熊英二氏が監督したドキュメンタリー映画「首相官邸の前で」が最初に上映されたのだったが、この映画はyoutubeから多くのクリップを拾い出し、OurPlanetTVなどに蓄積されたフッテージなどとも合わせながら、1つのドキュメンタリーに編集していったそうだ。小熊氏は2011年3月11日の後に起きたデモなどの一連の原発反対運動をきちんとまとめた記録映画がないことに社会学者としてこれではいけないと思ったと以前インタビューで話していた。反原発デモはあまりTVで報道されなかった。だから、参加者が自分で撮影したものが多数youtubeなどにUPされていた。もし、これらの映像クリップがばらばらにyoutubeにUPされて散逸していれば、それぞれの映像にはそれぞれの価値があっただろうが、その全体像とか、運動の変化とか発展がどういうものだったかを知ることは難しいだろう。こうして時系列で1本にまとめてみると、この運動がよく見えてきた。ドキュメンタリーではよく、スタンダールの小説「赤と黒」のように特定の主人公を設定して、その主人公の眼差しを通して群像や状況を語ることが多いが、このドキュメンタリー映画では多数の参加者の声を並行して取り上げながら、常に多数の視点を介在させている。それによって、これが一個人の物語ではなく、多くの人が参加したこの運動自体がヒーローであり、ヒロインであることがわかる。運動が一人の人間のように見えてくる。おそらく運動にも誕生から成長、そして死があり、さらに次につながる種もまかれる。私は「首相官邸の前で」を見ながら、そんなことを考えた。小林氏が語った宮川淳の思想には「引用の織物」という言葉がキーワードとしてあるそうだが、まさにこの映画も織物ではなかろうか。
今回、日仏の様々な理論家や実際の制作者がシンポジウムに参加し、それぞれの立場からイマージュについて語った。時間が限られているために駆け足になってしまうために多少なりとも聴衆の理解が消化不良になってしまうことは避けられない。それでも、多数の理論家たちが訪れて、興味深い話をした。
たとえばマウロ・カルボーネ教授(リヨン第3大学)である。カルボーネ教授は「透明性」という言葉がある種の政治運動で目立っているが、そこには幻想があり、過度に透明性を高めようとして、「可視性を真実と同一視してしまう恐れがある」という。この話はもっとじっくり聞きたかった。カルボーネ教授が生まれたイタリアにおける政治ポピュリズムの運動と関係しているようである。これに危惧を感じるカルボーネ氏は間に「介在する」人の存在は大切だ、というのである。カルボーネ氏はメルロー・ポンティの研究者として知られていて、「イマージュの肉: 絵画と映画のあいだのメルロ=ポンティ」という本が邦訳されている。
カルボーネ教授が投げかけたものは世界中でカメラが増えた結果、世界が「可視化」されたように一見見えても、それが新たな意識の簒奪を起こしている可能性を指摘するものだった、と思う。このことは以前読んだニューヨークタイムズへのある寄稿文を思い出させた。スマートフォンなどのデジタルツールが普及した結果、ソーシャルメディアによってデモが比較的簡単に広がり、政治変革に道を拓いたりしたことだ。その象徴はチュニジアで始まった「アラブの春」である。これは一見、純粋な民衆の自発的運動に見えたが、しかし、「アラブの春」が始まる2010年暮れの少し前からヒラリー・クリントンが率いる米国務省がデジタルツールを使ったアラブ世界の「民主化」を画策していたというのが寄稿文の内容だった。「アラブの春」はのちに様々な国が軍事的あるいは資金的に介入して、代理戦争の形に発展していった。今、増殖している画像や映像が本当に民主主義の発展に貢献しているかどうか、ということは検証を要するテーマだと思う。だから、その意味で、もう少しこうしたカメラの増殖とポピュリズムの関係あるいは民主主義の関係の議論を深めたかった気がする。映像はあるものを見せるが、何かを隠すものでもある。興味のある方は、国際政治コラムニスト、ラミ・クーリ(Rami G.Khouri)氏の「アラブがツイッターを始めるとき」(When Arabs Tweet)と題する一文を読まれたい。ニューヨークタイムズにこれが寄稿されたのはアラブの春が始まる半年ほど前の2010年7月のことだ。米国務省から当時、ソーシャルメディア戦略について意見を求められたクーリ氏はソーシャルメディアだけでは限界があるから、政府転覆には資金と兵器が必要だと答えたらしい。
また、このシンポジウムで少し触れられたことで興味深いものに、フランスの批評家イブ・シットン(Yves Citton パリ第8大学)の「メディアーキー」(Mediarchie)という概念がある。これはGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)などの巨大インターネット企業群のおかげで世界中の出来事が瞬時に世界中で視聴できる時代が到来した結果、世界中の人々が同時に同じ反応を起こしてしまうことの問題を指摘したものである。このことは現代の金融が瞬時に世界恐慌につながるリスクを高めているのと同様に、ちょっとした映像が世界中の人々を動員して世界を変えてしまう可能性があることを示唆している。いい方に変わればいいのだろうが、「いい方」というものが何かはなかなか決めるのが難しいし、情報操作されてしまう恐れもある。また世界の多様性を奪ってしまう恐れもある。そうした時に「メディアナルキー」という概念を対置して、あえてこうした世界同時性から身を離してみる、あるいはリズムを変えて、自分固有の時間を持ち、じっくり自分で考えてみることが大切だ、というのである。
たとえばツイッターでは参加者が真偽も分からないまま、瞬時に情報をリツイートなどの形で拡散してしまうことが増えているが、そこにはフェイクニュースが混じっている危険性もある。アメリカのトランプ氏の大統領選での勝因の1つにフェイクニュースがあったと指摘されている。私もだまされた。2016年の予備選の最中、「共和党員は馬鹿だから彼らをだまして私が共和党候補に選ばれる」といった内容のトランプ氏の過去のインタビューでの発言(実際にはそんなものはなかった)がフェイスブックで拡散され、アメリカのリベラル派や民主党支持者などの有権者たちにもアピールしていったのだ。さきほどのカルボーネ教授の話にも通じることだが、メディアに出てくる情報や画像、映像の意味や真偽を判断できる「介在する」人はむしろますます大切になっている。
その他、様々な話題が上がった。ギー・ドゥボール著「スペクタクルの社会」とか、ベルクソンやドゥルーズなどによる現代哲学、あるいは映像の経済学といった概念も論じられた。伊藤洋司氏は哲学者ベルクソンの特徴である「持続」という考えの誤りについて量子力学などの科学的な見地を交えて説明した。ベルクソンはドゥルーズにも影響を与え、フランスの現代の映画論の基礎に位置する人物であるがゆえに、ベルクソン批判は興味深く感じられた。フェミニスト映画史家の木下千花氏(京都大学)は反権力を標榜する人々のなかにも男女間の差別や歪み、あるいは女性嫌悪がありえることに言及した。
制作者の側ということで参加した「空族」(くぞく)という映画製作集団の富田克也監督と相澤虎之助氏(脚本家、監督)は商業主義ではできない独自の映画作りを行ってきた。空族の映画作りのリズムには独特のものがあり、批評家のイブ・シットンが述べたように、独自の時間性をもって活動しているように思える。それゆえに「サウダーヂ」や「バンコクナイツ」と言った個性的な映画が生まれたのだと思う。「バンコクナイツ」に至ってはアジアに滞在しながら、足掛け10年越しで完成させているのだ。富田監督はカンヌ映画祭国際批評家週間「特別招待部門」に完成したばかりのドキュメンタリー映画「典座 -TENZO-」が上映されることになり、シンポジウムを終えて空港に向かった。
これらの論客の話はいずれも興味深いものだが、もし、私が続きを書くならもう少しフォローして自分なりに理解を深めてからにしたい。
村上良太 MURAKAMI Ryota
※小熊英二監督「首相官邸の前で」の予告編
https://www.uplink.co.jp/kanteimae/ ※ギー・ドゥボール著「スペクタクルの社会」(1967年) 「現代のメディア消費社会を『スペクタクル』という概念で捉え、批判する。スペクタクルの社会とは、マスメディアの発達とともに資本主義の形態が情報消費社会へと移行し、生活のすべてがメディア上の表象としてしか存在しなくなった状況を指す。」( 河合政之)
https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8E%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%80%8F%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB ※富田克也監督の最新作(脚本:相澤虎之助) 禅宗の僧侶たちの求道と葛藤を描いた「典座 〜TENZO〜 」
http://sousei.gr.jp/tenzo/index.html ※筆者の監督したビデオ「甘いバナナの苦い現実」(製作PARC)
http://www.parc-jp.org/video/sakuhin/banana_new.html ※国会パブリックビューイング(2月16日 JR新宿駅西口地下)
https://www.youtube.com/watch?v=VC000PIiuLk ※2日間のシンポジウムに登壇した人々 富田克也(映画監督)、相澤虎之助(脚本家、映画監督)、村上良太(ジャーナリスト)、小林康夫(青山学院大学)、エマニュエル・アロア(ザンクトガレン大学)、マルク・アリザール(哲学者)、廣瀬 純(龍 谷大学)、マウロ・カルボーネ(リヨン第3大学)、スティーブン・サラザン(東京藝術大学)、伊藤洋司(中央大学)、木 下千花(京都大学)、クリスティアン・フェゲルソン(パリ第3大学)、吉見俊哉(東京大学) 司会 坂井セシル(日 仏会館・フランス国立日本研究所)、マチュー・カペル(同前)、澤田 直(立教大学)、三浦信孝(日仏会館副理事長)、 シルヴィ・ブロッソ―(早稲田大学)
村上良太
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