・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・国際
・農と食
・教育
・文化
・アジア
・入管
・中国
・市民活動
・米国
・欧州
・みる・よむ・きく
・核・原子力
・検証・メディア
・反戦・平和
・外国人労働者
・司法
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・市民活動告知板
・人権/反差別/司法
・沖縄/日米安保
・難民
・医療/健康
・環境
・中東
提携・契約メディア
・AIニュース
・司法
・マニラ新聞
・TUP速報
・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus
・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2024年11月22日
・2024年11月21日
・2024年11月20日
・2024年11月18日
・2024年11月17日
・2024年11月16日
・2024年11月15日
・2024年11月14日
・2024年11月13日
・2024年11月12日
|
|
2019年05月27日03時23分掲載
無料記事
印刷用
みる・よむ・きく
鵜飼哲・高橋哲哉編 「『ショアー』の衝撃」
ナチスのユダヤ人絶滅政策の歴史を証言で記録した「ショアー」(SHOAH)というドキュメンタリー映画があり、これは映画館で9時間30分もの大作として知られています。この半端じゃない長さのことや、近所のレンタルビデオ店に置いていなかったこともあって、長い間見る機会を持ちえなかったのですが、「ショアー」の映画の証言を書き起こした本が出版され、日本でも翻訳されていたことを最近知りました。読んでみると、映画で見なかったとしても、相当にインパクトがあり、恐ろしい歴史が刻まれていました。いや、そうした言葉自体が映画の中で語られた言葉にまったくついていけないものです。
アウシュビッツなどの強制収容所の映像は過去にもTVの歴史ものや「夜と霧」などの映画で何度も見た記憶があります。ところが、「ショアー」では生存者たちが記憶をひも解きながら語るのですが、同時に、それぞれの人の心そのものをも映し出しています。過去に遡ることに躊躇したり、語ることに非常に大きな苦しみを抱いたりする証言者も何人も出てきます。
「ショアー」が日本で公開されたのはフランスに遅れること10年、ようやく戦後50周年という年(1995年)でした。公開に当たって尽力した鵜飼哲氏や高橋哲哉氏などの哲学者が「『ショアー』の衝撃」という本を合わせて出版しています。この本にはクロード・ランズマン監督の言葉も収録されていて、非常に興味深いものになっています。「『ショアー』の衝撃」はいろんな角度から読める中身の濃い本になっていますが、ここで書きたいのは、ランズマン監督の「映像」に関する考えや言葉です。ランズマン監督はスピルバーグ監督がドラマにした「シンドラーのリスト」を非常に強く批判しています。ホロコーストの歴史をメロドラマにした、と批判しているのですが、問題はなぜドラマ化したことが批判されたのか、という点です。ランズマン監督は本書の中で次のように語っています。
「ホロコーストがユニークなのは何よりも次の点においてである。すなわちそれは、ある絶対の恐怖が伝達不可能である以上、自分の周囲に踏み越すことのできない限界を炎の輪のように作り出す。この限界を踏み越えようとすることは、最も重大な侵犯行為を犯すことにほかならない。フィクションとは1つの侵犯行為である。表象・上演にはある禁じられたものが存在すると、私は心底から思っている」(ホロコースト、不可能な表象)
ランズマン監督はさらに、「ショアー」の中には「夜と霧」などのドキュメンタリー映画で使われていた記録映像は一切使われていないと言っています。僕は映画自体は見ていないので、確信はありませんが、おそらく、大量のユダヤ人がやせ細って死んで束になり、ブルドーザーみたいな重機で大きな地面の穴に埋められていくようなフッテージ(連合軍による解放後の撮影だったとしても)も使われていないのだと推測されます。そして、ランズマン監督はもし記録映像があったとしても私は使わない、と言っているのです。スピルバーグ監督は再現という形で映画を撮影しましたが、ランズマン監督は証言するための新しい形式を作ったと言っています。
「かりに私が、SSの撮ったあるフィルム〜 撮影は厳しく禁止されていたから、それは秘密のフィルムだ 〜を見つけたとしよう。そこにはアウシュビッツの第二焼却炉のガス室で窒息させられた3000人のユダヤ人が、男も女も子供もいっしょにいかにして死んでいったかが示されているとしよう。もしもそんなフィルムを見つけたら、私はそれを人に見せないばかりか、破棄してしまうだろう。なぜそうするのかを私は言うことができない。それは自明のことなのだ」
この言葉はいろんなことを考えさせます。「ショアー」を読んだときに受けた印象は、それまでに見たアウシュビッツのガリガリに痩せて死んでいったユダヤ人の大量の死体の映像とは、まったく異なるインパクトで迫ってくるものでした。ランズマン監督が言っていることはそれと関係しているのだな、という気がします。つまり、記録を見ることにもインパクトはあると思いますが、証言にはそれとは異なる次元のインパクトがあります。確かに「ショアー」を一度読んでしまうと、もし実際の大量殺戮の記録映像があったとしても、それを見てはいけないような気がします。そう思うのは「ショアー」を活字に起こした本を読んだことが大きいです。読んでいなかったら、おそらくなぜランズマン監督がそう考えるのか、十分には理解できずもやもやしていたでしょう。もし、このさき9時間半の映画そのものを見る機会があれば、ランズマン監督が語った「証言のための新しい形式」というものが何かを確かめてみたいと思っています。
※「SHOAH(ショアー)」(翻訳 高橋武智、作品社) ※「『ショアー』の衝撃」(未来社)
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
|