最近、フランスの新しい政治運動に参加した人々と話をしていると、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシが書いた「自発的隷従論」の話がしばしば出てくる。「自発的隷従論?いったいそりゃ何だ?」と思ってインターネットで検索してみると、驚いたことに邦訳も出ていた。しかも、なんと2013年の秋に初版が翻訳出版されていた。これはすごい!実際に中世フランス語から翻訳したのが山上浩嗣氏で、山上氏に出版しないかと持ちかけたのが東京外大の西谷修氏である。タイミングを振り返って思えば、両者の時代を察知するセンスに脱帽するのである。
2016年に始まったフランスの「立ち上がる夜」(Nuit Debout)という運動の風変わりなネーミングはエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが書いた「自発的隷従論」からインスパイアされたものだと運動に初期から参加した人に聞いたことがある。民衆が権力者に支配される理由は、民衆が自発的に隷従するからだというのだ。最初は力づくで支配されたのであり、その時は抵抗していただろうが、支配されることが続くと次第にそれが習慣になってしまい、心身ともに下僕になる。下僕になった人々の子供たちは生まれながらに下僕の感覚に自然になってしまうというのである。生まれながらに下僕であるから、自由を経験したことがない。だから下僕の子供たちは自由を求めようとすることがない。これが自発的隷従論の基本コンセプトである。
「自発的隷従論」は18世紀半ばに「社会契約論」を記したジャン=ジャック・ルソーに通じる気がする。「人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。」という有名な冒頭部分である。最初は自由人だった人が、戦争に負けて奴隷状態になって以後、次第に無気力になり、そのまま代々奴隷身分に甘んじていく、というのである。このくだり、ルソーは若い頃、愛人の図書室でエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが書いた「自発的隷従論」を読んだんじゃないかなと思えた。驚くのはエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530 - 1563)が16世紀の人間でモンテーニュと同僚だったことだ。フランス革命から遡ることなんとおよそ250年である。
最初は自由の喜びを知っていた人々も、次第に自由を1つ、また1つと奪われ、その子孫たちが生まれた時には当初持っていた自由について誰も知らなくなっている。だから、自由という状態がなんだかわからなくなってしまうし、自由を求めることもなくなる。本性は自由を求めるものだったとしても下僕の習慣に生まれながらに染まってしまうのだ。西谷修氏は「自発的隷従論」は今の時代にこそ読まれる必要があると強く感じていたそうだ。だが、自由を知らない人にどう自由の価値を教えることができるのかはとても難しい問題だ。自分自身がそもそも自由なのか。
「このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ」(「自発的隷従論」ちくま学芸文庫、山上浩嗣訳 )
フランスの「立ち上がる夜」(Nuit Debout)という言葉には膝を屈して隷従することをやめて今夜、ここでともに立ち上がろう(Debout)、という意味が秘められている。
■自民党憲法改正案「第十三条 全て国民は、個人として尊重される」(現行) ⇒「第十三条 全て国民は、人として尊重される」(改正案) 個人と人の違いとは?
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509172355524
■ジャン=ジャック・ルソー著「社会契約論」(中山元訳) 〜主権者とは誰か〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401010114173
■ジョン・ロック著 「統治二論」〜政治学屈指の古典〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312221117340
■貴族制社会への移行 身分の固定化と一定額以上の納税をした国民だけに選挙権が与えられる国に戻る可能性
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201704250037572
■シィエス著 「第三身分とは何か」 特権階級とその他の市民「第三身分」で国会の比率はどう配分されるべきかを論じた書
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707012218436
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