6月にフランスの歴史学者で作家でもあるイヴァン・ジャブロンカ(Ivan Jablonka)氏が来日し、東京の日仏会館で講演した時の衝撃は以前、報告しました。ジャブロンカ氏は社会科学者〜歴史学者、人類学者、社会学者、政治学者など〜が文学を創造することで、社会科学を刷新できると語り、大きな刺激を与えてくれたわけです。折しもフェイクニュースや忖度報道、記事に見せかけた宣伝が氾濫する現代、どうやって真実を取り戻していくのかは課題になっています。そこで社会科学者たちによる文学の創造が新しい活気を作りだすというのです。
ジャブロンカ氏は自らそれを実践して、優れた文学を作り出し高い評価を得ています。彼の代表作とも言えるのが「私にはいなかった祖父母の歴史」(田所光男訳)です。ユダヤ系であるジャブロンカ氏の父方の祖父母はフランスで逮捕され、アウシュビッツ強制収容所で殺されています。「私にはいなかった祖父母」というのはこの二人のことで、生まれた時から一度も会うことができなかった祖父母はどんな人生をたどり、どのようにしてホロコーストの中で消えて行ってしまったのか。その欠落を歴史学者であるジャブロンカ氏が、専門的な調査・分析方法を駆使しながらも、ノンフィクション文学に仕立て上げたのがこの作品です。ジャブロンカ氏は「方法としてのJe(私)」ということを掲げており、自分自身がどのように調査対象と向き合うのか、その時々の思いを盛り込みながら、調査の結果だけでなく、その道のり自体を書いていこうというわけです。
「私にはいなかった祖父母の歴史」を手にして読んでみると、その文体の密度に感銘を受けます。同じように、ホロコーストで殺された少女の人生を探ろうとした作家、パトリック・モディアノの「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」)の場合と比べると、その違いがよくわかりました。双方ともに優れた文学作品ですが、モディアノの場合は作家として自由に描いていく形を取っています。しかし、ジャブロンカ氏の場合は、調査がもっと緊密で欧州を覆ったナチズムの歴史の資料全般と突き合わせて、祖父母がその時、どういう状況であった可能性があるかを、可能な限り探り出そうとしています。その情報のきめ細かさはたとえば祖父がポーランドからフランスに亡命してフランス軍でナチスと闘った時に、どの部隊に配属され、その部隊がどのような人で構成され、どのような戦闘を行っていたのか。あるいはフランスで逮捕された祖父母がアウシュビッツへ移送された列車は何時間かかり、その時、車両はどんな状況だったか。到着後何が待ち受けていたか・・・可能な限り調べています。そのように緻密に歴史学者としての方法を駆使することで、文学でもありながら、同時に「歴史」でもあることが理解できます。
実際に、この本を読むことで、今までホロコーストをめぐる映画や小説や記録資料などではよくわからなかった事情がかなり理解できます。たとえば、イヴァン・ジャブロンカさんの祖父母はもともとポーランドに住んでいたユダヤ人でしたが、ポーランドにおける反ユダヤ主義の実像もかなり浮き彫りになっています。その辺は今まで日本ではあまり見えなかった部分ではなかったでしょうか。そこにヒトラーのナチスとスターリンのソ連が占領してきます。共産主義者だった祖父母がそのような状況で、何を考えていたであろうか、とジャブロンカ氏は、南米に移住した親族などにも聞き取りを行っています。
今、ポーランドの政治はかなり極右的になっていると聞きますが、もともとポーランドには排外主義の芽があったことがわかってきます。さらに共産主義者でもあったジャブロンカ氏の祖父母がポーランドでの官憲による迫害を逃れて渡仏した時の亡命申請の過程や、フランスに移住した後の生活なども見えてきます。また、ポーランドから南米に移住した一族のメンバーもいました。こうして祖父母の人生を見つめていくことで欧州の大きな流れが〜ジャブロンカ氏の家族だけでなく〜見えてきます。これは政治学とか歴史学の教科書的な本ではなかなかわからない歴史の実像であり、血肉だと思います。大学の研究者の本の中には欧州の本や資料を要領よくまとめただけの中身スカスカの本もそこそこあります。そういう本を読んでも数字は頭に入るかもしれませんが、本当の歴史は見えてきません。「私にはいなかった祖父母の歴史」を読むことで、欧州の現代史、特にナチズムの歴史が国境を越えてより理解できるようになると思います。その意味でも、本書はジャブロンカ氏が提唱する社会科学を文学にする、ということがどのようなことなのかを具体的に理解できる一冊だと思います。
村上良太
■イヴァン・ジャブロンカ氏の日仏会館における講演「社会科学における創作」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201906250215032
■日本に関心を持つ売れっ子イラストレーター、ノーラ・クリューク(Nora Krug) 村上良太
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201211130731222
■パトリック・モディアノ著「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602180848024
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