先日、ケン・ローチ監督の話題作「家族を想うとき」の上映会と合評会に参加したときのことを書きました。「わたしの仕事8時間プロジェクト」が主催した上映会です。映画も素晴らしかったのですが、そのあと、グループに分かれて見た人同士で映画についていくつかのポイントごとに論じたのです。学生時代はこういうことをしたことがよくありましたが、最近はほとんどなくなっていました。合評会は他人の視点を知る貴重な機会であると改めて認識しました。というのは参加者の中には様々な立場の人がいて、それぞれの経験が映画の評価とか、印象に残ったシーンの選択に影響を与えているであろうことです。ですから、10人いれば10通りの見方があると言っても過言ではありません。
以前、映画を見た時、人がどこに着目するか、どこが記憶に残るかについて書いたことがあります。少し長いのですが引用します。
「映画『キャタピラー』を編集した映画編集者の掛須秀一氏はこんな昔話をしてくれたことがある。映画の勉強をしていた青年時代、掛須氏は映画館で映画を見た後、家に帰って、映画を『採録』していた。記憶を頼りに、セリフやアクションをノートに書いて脚本を再構成する作業である。今のようにDVDやレンタルビデオ屋で映画が豊富に参照できる時代ではない。ノートと鉛筆だけで印象に残るセリフやアクションを書き出していくのである。そんな風に記憶で物語を再構成してみたものの、他人が採録したバージョンとはよほどかけ離れた映画になっていた。 人はそれぞれ自分が面白いと思ったところで映画を評価する。人によって映画が面白かったり、面白くなかったりするのは観客の人生や感性や考え方などが作用するためだ。だから、印象に残るセリフやシーンも人によってばらつきがある。観客が100人いれば100通りの映画があると言っても過言ではない。」(「記憶と映画」より 2011年6月9日)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201106091429034 だから、映画を見たあとに合評会を行うことは自分と他人との間にある「ずれ」を知るよい機会だと思います。映画館から次第にDVDやインターネット配信に視聴形態が移行する中で次第に、個室で個食するように、映像も個的に鑑賞する機会が多くなっているのではないでしょうか。そのことを考えた時に、この合評会の企画に、国会パブリックビューイングを運営してきた上西充子法政大学教授や伊藤圭一氏(全労連)が関わっていることは大きな意味を持っていると思いました。国会パブリックビューイングは公共の場でみんなで国会の模様を映像で一緒に視聴する、という活動です。これは政治的運動でもあるのですが、ビジュアル文化の面からももっと評価されてよい運動であると思います。多くの人が一緒に見て、論じ合う。昔は当たり前にあった文化ですが、最近はバラバラになってすたれてきていました。その意味をもう一度今、考えるよい機会であると感じました。
僕が非常に残念に思っていることは、僕の同業者であるTVなどの映像業界のプロの人たちが国会パブリックビューイングを無視しているように思えることです。1970年代なら、たとえば佐藤忠男のような映画評論家が、国会パブリックビューイングの映像活動を正当に評価していたのではないか、と思えるのです。
※映画のトレイラー(予告編)
https://www.youtube.com/watch?v=C0nTNWILxww
https://www.youtube.com/watch?v=8mkIMB9INwg
※「わたしの仕事8時間プロジェクト」
http://union.fem.jp/
●登壇者 上西 充子 法政大学教授 西口 想 ライター・労働団体職員 北 健一 ジャーナリスト 川上 資人 弁護士 菅 俊治 弁護士
村上良太
■映画「家族を想うとき」 問われる現代の労働のあり方
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201912080140400
■国会パブリックビューイングを見に行く
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201902062355103
■日仏会館シンポジウム「イマージュと権力 〜あるいはメディアの織物〜」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201905190344430
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