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2019年12月28日16時04分掲載
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歴史を検証する
室蘭で散った10代の朝鮮人徴用工の遺骨 62年後に返還、賃金は未払い 木村嘉代子
「徴用工問題」についての解説はいたるところで目にしますが、個人的にあらためて勉強し直し、断片的ですが記事をアップしました。徴用工、いわゆる朝鮮人労働者を知ったのは、10年前に、北海道室蘭市の寺にあずけられていた3体の遺骨返還を取材したときでした。遺骨となった3人は、日鉄輪西製鉄所、今問題になっている徴用工訴訟の原告と同じ日本製鉄で働き、米軍の艦砲射撃で命を落とした10代の朝鮮人労働者です。彼らの骨箱には、お金が入っていない給料袋と給料明細が残っていました。賃金などはGHQに渡ったことがわかっていたため、米軍公文書を追ったところ、結局、彼らに支払われるべきお金は日本政府に供託され、いまだ未払いのままです。
▽朝鮮人工員2248人が日本製鉄輪西製鉄所で就労 2008年2月26日、室蘭市の寺に納められていた朝鮮人労働者3人の遺骨が62年ぶりに祖国の韓国へ返還された。戦時中、室蘭市の日本製鉄輪西製鉄所で就労させられていた朝鮮人労働者のうち、終戦直前の米軍爆撃で犠牲になった10代の少年、朝鮮半島出身のチョン・ヨンドク(鄭英得)さん、イ・ジョンギ(李延基)さん、ク・ヨンソック(具然鍚)さんの遺骨だ。
3人は日本に連れてこられた「集団移入」朝鮮人労働者である。
1937年に始まった日中戦争を契機に、日本は生産力拡充政策を強行していくが、労働者不足は深刻な状況に陥った。1939年、国家総動員法に基づく労務動員計画で初めて、朝鮮人労働者の移入を決定し、それ以降毎年、朝鮮人労働者の動員数は増加する。
最初は炭坑や土木建築、一部の工場での雇用だったが、重要な軍需産業である鉄鋼業界も、1942年2月閣議決定の「朝鮮人労務者活用に関する方策」 に基づき、翌3月から朝鮮人労働者の「集団移入」を開始した。
日本製鉄も朝鮮人労働者を雇用し、終戦時(1945年8月15日)には5,555人の朝鮮人労働者が働いていた。 日鉄輪西製鉄所における朝鮮人工員は2,248人で、在籍労働者総数14,487人のうちの約16%だった。
軍需工場の日本製鉄輪西製鉄所と日本製鋼室蘭製作所をもつ室蘭は、1945年7月、米軍からの爆撃を受けた。7月14日朝には空襲、15日には砲射撃だった。 14日、米軍の艦上機約500機が北海道各地区に来襲し、輪西製鉄所およびその社宅地区にも主に機銃掃射があった。構内に爆弾3個が投下されが、このときの被害はなかった。 翌15日は、ミズーリ、アイオワ、ウィスコンシンなどの戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻から激しい艦砲射撃を受けた。主な標的は日鋼室蘭製作所と日鉄輪西製鉄所だった。 日鋼室蘭製鉄所は、7月15日、朝9時37分から10時40分にかけて、工場構内に40サンチ砲弾64発、社宅地区には40サンチ砲弾130発が着弾した。 一方、日鉄輪西製鉄所は、早朝9時37分から10時37分までの1時間にわたり、構内および構外に311発の被弾があった。施設は崩壊し、従業員と家族、その他関係者182名(うち従業員は83名)が死亡。重傷者は12名、軽傷者は40名だった。
2日間の爆撃による室蘭全体の被害は、死亡393人、重傷107人、軽傷57人、全壊344戸、半壊799戸だった。
この表の訓練生が朝鮮人労働者であり、5人が構内で死亡している。
日鉄輪西製作所の犠牲者の5体の遺体は、敗戦後、帰還船「信濃丸」で朝鮮人帰国者250人とともに渡った。そこで日鉄職員の手により遺族に返還されるはずだった。
しかし、米軍占領下の朝鮮に日本人は自由に入国できず、結局、一体は犠牲者の従弟に渡されたが、残りの四体は室蘭へと戻された。
1975年に一体は遺族に返還されたが、鄭英得さん、李延基さん、具然鍚さんの3人の犠牲者の遺骨は室蘭市輪西の光照寺(浄土真宗本願寺派)に預けられたままだった。
ク・ヨンソックさんの父親は、1963年、池田勇人首相(当時)宛に数度にわたり陳情書を提出し、息子の遺骨の返還を求めた。しかし、実現にいたらず、息子の遺骨を受け取ることなく他界している。
3人はみな慶尚南道出身で、チョン・ヨンドクさんは1929年3月生まれ、イ・ジョンギさんは1929年11月生まれ、ク・ヨンソックさんは1929年2月生まれ。日鉄輪西製鉄所で亡くなったときは16、17歳だった。
▽市民団体が遺骨返還を実現 2004年、外務省外交史料館に保管されている資料をもとに、市民団体「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」(以下、北海道フォーラム)が光昭寺にあった骨箱を開け、遺骨および遺品、関係資料の存在を確認した。
遺族3人が遺骨の受け取りを希望していることがわかり、2005年5月に鄭英得さんと李延基さんの遺族7人が北海道を訪れ、光昭寺住職、北海道フォーラム、室蘭市民立ち会いのもと、光昭寺本堂で60年ぶりに遺骨となった肉親との対面を果たした。 しかし、遺族は自らの手で遺骨の持ち帰るのを断念した。「犠牲の真相究明と責任の所在を明らかに」し、公式な形での遺骨の返還を求めたからだ。
市民団体らは、遺族の訴えを受け、日本政府と日本製鉄の後継企業である新日鉄に責任ある対応を求め、交渉を重ねることになった。
2004年の日韓首脳会談以降、日本と韓国の政府間において、強制動員犠牲者の遺骨をめぐる協議が進められてきた。「軍人・軍属」の朝鮮人犠牲者の遺骨についての返還協議はもたれたが、企業に集団移入された朝鮮人労働者の遺骨返還問題はなかなか進展しなかった。
公式な遺骨返還を望みつつも、遺族の高齢化という現実との狭間で、苦渋の選択により、3体の遺骨が返還されることになった。2007年11月に室蘭市民が主体になり、「強制連行犠牲者の遺骨返還を実現する室蘭市民の会」(以下、「室蘭市民の会」)を結成し、遺骨返還を実現した。
2008年2月17日、光昭寺で執り行われた追悼式には、鄭英得さんの弟チョン・サンドクさん夫妻も参列した。室蘭仏教会などの僧侶七人が読経するなか、約130人の市民や関係者が焼香。続いて、「室蘭市民の会」共同世話人の広田義治さんが、「3人は自分と同じ世代。母国への返還がこんなに遅くなり、本当に申し訳ない」と述べ、「北海道フォーラム」共同代表の蔡鴻哲(チェ・ホンチョル)さんは、「強制連行され、しかも日米戦争の犠牲者となった3人の二重の苦しみを思うと胸が張り裂ける。今回の遺骨返還は、終わりではなく、はじまりである。二度とこうした過去を繰り返させないために、この事実を家庭や職場で語りつづけてほしい。返還が実現したのは室蘭市民のおかげであり、その真心を韓国の遺族に必ず伝える」とあいさつした。
室蘭市長の弔慰文代読の後、在日韓国人の琴尚一(クム・サンイル)さんは、「遺骨問題は、日韓朝の複雑な関係によりなかなか解決されず、闇に葬られている。その一方で、市民レベルで返還が実現したこと、民衆間の和解がすすんでいることは喜ばしい」と語り、小学六年生の女子児童が、「遺骨の3人が10代だと知り、自分と同じぐらいの年齢で日本に連れてこられて申し訳ない。歴史の出来事には、教科書に載っていない事実がたくさんあることがわかった。これからも多くのことを学びたい」と述べた。
追悼法要には、新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所長から花と弔電が届いたが、政府および企業関係者の参列はなかった。 2008年二月二六日、チョン・ヨンドクさんの遺骨は弟の胸に抱かれて、新千歳空から祖国・韓国に旅立った。
遺骨は返還されたが、3人の給料などは日本から戻されていない。室蘭市の寺にあずけられていた3体の遺骨の遺品は、骨箱に入っていた給料袋と給料明細だけで、しかも、給料袋の中身は空っぽだった。
犠牲者の「退職金その他の未払金」は、本来遺族に渡されるべきものである。遺族はそのお金がどこにいったのか、調査を依頼していた。
3人の朝鮮人労働者に支払われるべきお金は、GHQ室蘭進駐軍司令部がの口座にいったん移され、その後、日本の賠償庁にわたり、同省庁が廃止される際に、大蔵省に受け渡された。大蔵省の「金銭供託受付簿」(1950年度から現在)に記載されている、1959(昭和三四)年9月16日受理の2,631,448円。これが、戦時中に朝鮮から動員された労働者の未払金だ。
そしてそのお金は、法務省に供託され、いまも遺族には渡されていない。
<日鉄輪西製鉄所の沿革>
北海道の南、太平洋に面して位置する室蘭市は石炭の産地に近く、良好な港を有していたため、明治初期から、製鉄業にすぐれた立地として認められていた。 室蘭で近代的な製鋼事業がはじまったのは、本格的な官営製鉄所、八幡製鉄所の第一鉱炉に火が入った1901年2月の6年後、1907年のことだった。
明治政府による富国強兵・殖産興業の推進で鉄鋼の需要は年々増加したものの、近代的な大規模製鉄所の経営には巨額の資金が必要で、民間企業はなかなか着手できなかった。 1895年の日清戦争後に政府が官営製鉄所の設立に本腰を入れるまで、国内での銑鉄・鋼鉄生産は無きに等しく、海外からの輸入に依存していた。 1896年の帝国議会で官営製鉄所建設費予算が認められ、福岡県八幡村に設置が決定した。戦後の大好況で民間製鉄所の新設も相次ぎ、日露戦争の勝利でさらに日本の鉄鋼需要は急増し、近代工業国家へと突き進んでいく。
室蘭でもこの時期、北海道炭礦汽船が製鉄所を創設した。北海道炭礦汽船の前身である北海道炭礦鉄道は、1889年に設立され、幌内と幾春別の炭鉱の採掘、幌内から岩見沢・札幌を経て小樽、そして幌内・幾春別間を結ぶ鉄道を経営していた。その後事業は拡大し、空知・夕張の炭鉱の採掘、両炭鉱を結ぶ鉄道の敷設、空知から岩見沢を経て室蘭にいたる鉄道の開通、さらには、船舶を購入して海上輸送での石炭搬出も手がけた。 念願だった製鉄事業の経営に乗り出したのは、1906年、鉄道国有法の制定により北海道炭礦鉄道の鉄道が政府に売却され、約300万円余りの補償金を得たときだった。これに伴い、社名も北海道炭礦汽船株式会社に変更された。 この時点では、政府は兵器製造を優先する国防強化を国策としており、海軍の強い勧めもあって、北海道炭礦汽船は1907年、兵器製造を目的とした、日英合弁の日本製鋼所株式会社を設立することになった。
その一方で、日本製鋼所の取締役会長に就任した井上角五郎は、自家製コークスと砂鉄による製鉄業を断念できず、同年、北海道炭礦汽船輪西製鉄所を室蘭・輪西に建設した。輪西製鉄所の開設は、釜石・八幡に次ぐ、日本第3番目である。 輪西製鉄所は、50トン溶鉱炉を備えた、コークスと砂鉄による日本初の製鉄工場だった。ほどなくコスト高と不況で生産停止に追い込まれてしまうが、三井財閥がそれを救う。1913年、北海道炭礦汽船は三井系列に組み込まれ、三井財閥の強力な資金援助を受けることになり、輪西製鉄所は再開した。 その4年後、輪西製鉄所は北海道炭礦汽船から分離し、三井鉱山、三井合名、北海道炭礦汽船輪西製鉄所の共同出資による新会社として独立。社名を北海道製鉄株式会社とした。 続く1919年、三井財閥は製鉄と製鋼の一本化を図り、傘下にあった日本製鋼所と輪西製鉄所を合併し、日本製鋼所室蘭工業所とした。
しかし、第一次世界大戦後の好況から一転、関東大震災の影響もあり、日本は不景気に陥り、製鋼所も事業合理化を迫られた。1924年2月、三井鉱山、北海道炭礦汽船、日本製鋼所の三社で「輪西製鉄組合」が設立。その後、日本製鋼所から独立し、1931年10月に輪西製鉄株式会社が発足した。 分離は打開策だったのだが、9月18日の会社創立総会の日に満州事変が勃発。それを転機に鉄鋼の需要は急騰することになる。 戦時色が濃くなるにつれて、重要な基幹産業である鉄鋼業は合同化が図られ、1933年に製鉄合同案が議会を通過し、4月5日に日本製鉄株式会社法が公布された。 そして、1934年2月、官営八幡製鉄所、輪西製鉄所、釜石製鉄所、三菱系の朝鮮兼二浦製鉄所、富士製鋼所、九州製鋼が合併し、日本製鉄株式会社輪西製鉄所となった。
日本製鉄所は、資本金5億4,594円の日本最大の鉄鋼企業で、政府が株式の大半を所有し、監督権、命令権、人事権を持つ国策会社だった。 1937年の日中戦争は、日本国内の軍需工場を急速に膨張させ、政府の生産力拡充政策は日鉄の鉄鋼生産を急増させる契機となった。 同年8月に製鉄事業法が成立し、鉄鋼一貫作業の奨励、原燃料の海外依存の低減などへの助成が積極的に促されることになった。 日本製鉄は設立以来、長期拡充計画を推進していたが、1938年1月に成立した軍需工業動員法のおかげもあり、輪西製鉄所の第三次拡充計画が具体化し、銑鋼一貫工場を実現した。1939年、700トン溶鉱炉を有する仲町第一、第二が完成し、火入れが行われた。さらに、1940年には第三溶鉱炉が竣工し、1942年12月には仲町工場に150トン平炉5基の設置が完了し、作業を開始した。
参考資料:『室蘭遺骨返還資料』強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム 2008年、『室蘭製鉄所50年史』富士製鐵株式会社室蘭製鐵所 1958年
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徴用工の追悼式





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