ナチ・ハンターという言葉がありますが、これは史上最大のレイシズムを欧州で巻き起こし、欧州におけるユダヤ人の絶滅を試みたナチスの責任者を追及した人々を指します。著名な人にアメリカで活動したサイモン・ウィーゼンタール氏がいますが、フランスのセルジュ・クラルスフェルト氏も欧州では著名なナチ・ハンターとして知られています。ドイツ人のベアテさんを妻として二人で責任追及の道を歩んできました。クラルスフェルト夫妻の足取りは非常に興味深く、示唆に富んでいます。
日本ではしばしばドイツ人自身によるナチズムへの責任追及は徹底的に行われたが、日本では戦争責任を自身で追及したことがない、とはよく言及されてきました。しかし、実際にはドイツを含む欧州においても戦後の冷戦構造やレジスタンス神話の中で、ナチ戦犯や「協力者」の追及は当初は、全然十分に行われていませんでした。セルジュ・クラルスフェルト氏は父親がアウシュビッツで殺された歴史学者で、大量殺人の責任者を追及したいと思っていました。フランス国内で拘束されたユダヤ人の強制収容所への移送を指揮していたのが親衛隊幹部のクルト・リシュカでした。彼が戦後、ドイツのケルンで暮らしていることをつきとめたクラルスフェルト夫妻はなんとか過去の罪を負わせたいと考えます。
そこで被害者やその親族が多数存在するフランスへ彼を移送して裁判にかけたいと思いました。しかし、当時はドイツで移送のための法整備がなされておらず、フランスへの引き渡しはできなかったのです。そこで路上でリシュカを拉致して実力行使で車で連れ帰ろうという試みもしましたが、そもそもそうしたことには不慣れな素人集団だったため、リシュカ拘束の企ては完全な失敗に終わります。彼らの試行錯誤は「ナチ・ハンター」というシリーズで描かれています。
数千人の強制収容所への移送を指揮していた親衛隊幹部がドイツで自由に生きている、ということがクラルスフェルト夫妻には不条理に思えたはずですが、当時のドイツのシステムではどうしようもなかったのです。そこで妻のベアテ・クラルスフェルト氏はクルト・リシュカ拉致の未遂犯としてドイツで自首し(夫たちはひとまずフランスに逃走していた)、なぜ自分たちがそれを試みたか、そのことを新聞記事にしてもらいました。ベアテ氏はドイツの監獄に入れられましたが、その代償としてフランスのユダヤ人を死に追いやったクルト・リシュカという親衛隊幹部がケルンで自由に暮らしていることの不当性が新聞に掲載されることになったのです。ドイツでクルト・リシュカが逮捕されたのは1978年でしたから、夫婦が活動を始めてから実に10年近くが経っていました。リシュカは後にフランスに引き渡されて懲役10年の刑を宣告されます。ナチ戦犯を追及した東京裁判のドイツ版から、実に30年以上が経っています。
ナチ・ハンターたちはニュルンベルク裁判で裁かれなかったナチスの犯罪者たちの行方を南米まで視野に入れて探し求めました。1つ1つの証言を石のように積み重ね、事実を積み上げてナチ時代の真実を検証していきました。日本ではアウシュビッツの生還者が書いた手記とか、あるいは、不幸にも収容所で亡くなったアンネ・フランクの日記などは翻訳されてロングセラーになっているものの、ナチ戦犯を追及したノンフィクションの翻訳出版は逆に稀なのではないでしょうか。
セルジュ・クラルスフェルト氏は『フランスから強制移送されたユダヤ人の記録名簿 (Memorial de la deportation des Juifs de France)』を1978年に出版しています。ナチ収容所にフランス国内から移送されたユダヤ人、7万人以上が一人一人、どの列車でいつ移送されたかが名前入りで記録されたものです。ノーベル文学賞を受けた作家のパトリック・モディアノが著名な『ドラ・ブリュデール』(邦題は『1941年。パリの尋ね人』)を書いた時に、この記録名簿を参照したと語っています。夫婦の足取りを俯瞰すると、当初は司法制度が整備されていなくても、諦めずに続けていれば時代がそれを汲んで制度が変わっていくのだ、という教訓が得られるのではないかと思います。
■パトリック・モディアノ著「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602180848024
■イヴァン・ジャブロンカ著「私にはいなかった祖父母の歴史」 社会科学者が書く新しい文学
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201908021535275
■イヴァン・ジャブロンカ氏の日仏会館における講演「社会科学における創作」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201906250215032
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