上西充子教授(法政大学)らが始めた「国会パブリックビューイング」は、今となっては新聞・TV・ラジオなどのマスメディアで取り上げられてすっかり定着した市民運動になりましたが、始まってまだ2年ほどに過ぎません。<国会の質疑応答の1コマをノーカットで公共の場で一緒に見る、そして見どころには解説を入れる>。回を重ねるごとに新宿駅前地下のスクリーンを囲む人垣は大きくなっていきました。この運動が大きく成功したのには、いくつかの要因があります。明確な動機、技能や知識を持つ何人かの個性的な仲間、プロのマスメディアではないことによる新鮮な視点など。上西充子著「国会を見よう 国会パブリックビューイングの試み」(集英社)にはそれらが見事に凝縮されて記されています。将来、同じような活動をしてみようという人にとって参考になるでしょうし、マスメディアで報道の仕事に携わっている人にとっても大きな刺激になるに違いありません。
僕自身も国会パブリックビューイングを何度か取材させていただきましたが、現場で感じることはこの運動は「映像」の運動であるということです。何が最もインパクトがあるかと言えば、「ノーカット」で一連のやり取りを立ち止まった人々に見てもらおう、という試みです。TVであればニュースの報道であれ、長尺のドキュメンタリーであれ、「ノーカット」で一連見せる、というのは今の時代、ほとんど不可能です。たとえば10分誰かのインタビューを収録したとしても、1分あるいは30秒、時には15秒みたいに徹底的に要点だけ切り取って、単純化して「わかりやすく」して放送しています。理由の1つは時間尺が限られているからです。ところが本書の中で触れられていますが、上西教授と映像編集担当者の一人、横川圭希さんが国会パブリックビューイングの短縮バージョンを試作してみたところ、切り刻んだらまったく面白くないことに気づくくだりがあります。
「だから、強く与野党が対立しているような、一見しただけで『絵になる』場面を切り出して見せることは、私たちが国会パブリックビューイングでやりたいこととは違っていたのだ。また短く編集したほうがよいという意見も、自分たちが伝えようとしていることとは違うと、私たちは街頭上映の経験から確信することになった」
映像を短く編集することは、それ自体が悪いことではありません。素材から作品に必要な箇所だけ切り出して、複数のカットを編集しながら考えを進めていき、作品にまとめていく。これは基本です。筆者自身も8分くらいのニュースの特集を過去に何本も作ったことがありますが、短くまとめるのはとても難しいです。一番肝心なことは何なのか、不要な要素をぎりぎりまで削り落としていくのは難しいものです。一般論ではそうなのですが、しかし今の「国会」という場の真実を伝える時に抽出した短いカットをモンタージュするやり方では大切なことがまったく伝わらないことを上西教授は確信したと本書で書いています。本書の中ではたとえば働き方改革をめぐる野党議員と大臣の国会でのやり取りの実例が紹介されていますが、やり取り自体のノーカットのリアリティの中に重要な要素があり、それをカットして骨子だけ編集したのでは、重要なものが消えてしまう。だから、一連の質疑応答はノーカットで抜き出して見せる。上西教授たちはそう決めたのです。これは革命的なことだと思います。メディアの中にどっぷり使っていると、編集して簡潔にまとめる、というのがあまりにも常識になっていますから、「ノーカットで見せる」という発想がまず出てきにくい。
しかも、ニュース番組枠の時間配分という縛りが圧倒的にのしかかっています。1時間の中にはスポーツなどのトピックも入れないといけないのです。上西教授たちも最初からノーカットで、という発想が強くあったわけではなくて、働き方改革をめぐる番組のインタビューのために出演したTBSラジオの司会を務める荻上チキ氏の番組の手法から学んだり、上西教授ら自身が国会審議を分析したりする過程で、現場のリアリティを活かすことが大切だと気付いたりするプロセスが書かれています。
「さらに、スクリーン上で展開されているのは、第一章で見た論点ずらしの『ご飯論法』のような、わかりにくいやりとりであるので、一見しただけで内容を把握することは、ますます難しくなる。大声で言い合っているようなわかりやすい場面ではなく、野党議員の真摯な指摘に対して、わかりにくくごまかした答弁がおこなわれている現状こそ、もともと見てもらいたいと考えていたものだった」
国会をじっくり見つめる「国会パブリックビューイング」を続ける中で、上西教授は映像編集の技術にも目を向けるようになりますが、その象徴がNHKの「ニュースウォッチ9」で野党の小川淳也議員を印象操作したことを検証したもので、ハーバービジネスオンラインにUPされた「小川淳也議員による根本大臣不信任決議案趣旨弁明を悪意ある切り取り編集で貶めたNHK」(※2019年3月6日)です。この中でNHKが小川議員が無駄に時間を消耗していることを伝える意図で、小川議員がやたらとコップの水をごくごく飲むかのような意図的な編集が見られることを上西教授は検証しています。NHKが編集で現場のリアリティとは異なる「現実」を創り出していたことを検証したのです。これは国会パブリックビューイングがノーカットにこだわってきたことと関係しています。編集という行為は、そもそもそこに作り手の意図が反映するわけですが、NHKという公共放送が野党議員の印象を悪くするように操作していたことになります。上西教授や横川氏、さらに映像担当の真壁隆さん、そして解説者の一人、伊藤圭一さんらが国会パブリックビューイングを通して、国会報道の「虚構」を暴くことに注力した結果、今日の首相官邸の記者会見のあり方にも疑問の声が上がってきています。
上西教授たちが「国会パブリックビューイング」を既存の政治演説のような運動ではなく、町の人々に立ち止まってまずは<見ていただく>という運動にしたことは、大きな成功の原因でした。町を歩く人々の知性や感性を尊重し、彼らの「見る」、という行為の主体性を尊重したのです。こうした考え方はフランスのヌーヴェルヴァーグの際の原動力であり、その原点となった映画評論家アンドレ・バザンによる「ジャン・ルノワール」論(※)にも書かれています。 上西教授が小川淳也議員のNHKの意図的な編集を検証した記事は、エイゼンシュタインのモンタージュ論以来の映像論のように感じられます。こう書くと、上西教授たちはテレビの世界にとてもアンチな人々に感じられる方もいるかもしれませんが、実を言えば、むしろ本来のテレビの原点に近い活動と言えると思います。テレビの草創期の人々は、テレビマンだけじゃなくて、新聞記者、映画監督や映画カメラマンといった外部から入ってきた人々もいて多様な視点をぶつけ合いながら1つの番組を作っていました。そして、常にテレビとは何なのか、と問いかける姿勢を持っていました。テレビが始まって60年以上が過ぎ、今日のテレビは自分たちが作り上げた規則だらけになっています。そして時間という制約にとらわれにくいインターネットがその間隙をついて成長してきました。インターネットではノーカットが普通にあり、視聴者の受け止める「リアリティ」が変わりつつあるのです。その意味で、こういう市民運動が提起していることをTVの世界がそれを取り入れ、起爆剤にした方がよいのではなかろうかと思います。「国会を見よう 国会パブリックビューイングの試み」はこの運動の原点となった労働法の規制緩和の問題も重要な要素になっていて、まさにそこから上西教授たちの運動が始まっていくのですが、多様な発見のできる大変面白い本になっています。
※「小川淳也議員による根本大臣不信任決議案趣旨弁明を悪意ある切り取り編集で貶めたNHK」(ハーバービジネスオンライン)
https://hbol.jp/187300/2
※アンドレ・バザン著「ジャン・ルノワール」(フィルムアート社) 「要するに、ルノワールは俳優たちを、あたかも彼が、演じられているシーンよりも演じている俳優たちを、またシナリオよりもシーンを愛しているかのように演出するのである。そしてそこからこそ、演技とドラマ上の主題の間のずれが生じるのである。」 密室で書き上げられた筋書き自体よりも、それを演じる俳優たちの撮影現場でのリアリティに光を当てたのがジャン・ルノワール監督だった。 「ルノワールの映画はわれわれに、その映画のなかのゲームに加わることを求めるのである」 筋書き=ニュース原稿、俳優たち=国会議員・大臣・官僚などと置き換えてみると、国会PVはニュース原稿的な筋書きではなく、俳優たち個々の素材の持ち味、国会という撮影現場の空気や光、間合いなども含めたデテールに焦点を当てたと言えよう。だから、それぞれ「俳優たち」の素の面白さが見る人に伝わってくるのだと思う。
村上良太
■テレビ制作者シリーズ11 「報道のお春」吉永春子ディレクター
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201004081911144
■国会パブリックビューイングを見に行く
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201902062355103
■上西充子著 「呪いの言葉の解きかた」(晶文社)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201905261630370
■日仏会館シンポジウム「イマージュと権力 〜あるいはメディアの織物〜」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201905190344430
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