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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2020年04月30日10時16分掲載
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反戦・平和
憲法九条誓願桜「九条乙女」(2)戦争犠牲者の慰霊と供養のために 浅利政俊
戦争体験世代は大日本帝国憲法下に青少年期を生活した。そこには日本国憲法の精神が無い時代であった。村には青年が一人もなく戦場に応召された。前線で戦病死となり帰らぬ人が多数に上った。地域では空襲被害者はどのように生きのびたか。戦後の混乱期は、誰も戦争は軍人がやったことだ、軍人や戦争指導者、国がきちんと調べ必要な援助をやるべきだと言った。しかし、率先して調査をやる者はいなかった。
▽「先生、なぜなのですか?」 私は教育に身を置く者として、教室で子どもとこの課題に向き合わねばならない。その必要性を感じたのは、函館市中島小学校に勤務していた1975年(昭和50年)、高学年担当の際、社会科学習時の教室で子どもから上がった質問の声であった。 「先生、教科書には沖縄の戦争、広島、長崎の原爆、東京大空襲の歴史が書かれている。なぜ函館空襲の事がないんですか。教えてください。ぼくのおじいさんは函館空襲の時、函館湾で第四青函丸の船長でした。乗組員と船内にいてアメリカ空軍に空襲されて死にました。函館空襲のことも教えてください」 教室は一瞬静まり返った。続いて、戦後、船長夫人であった祖母が大層苦しんだ話も加わった。
数日後、家庭訪問で事実を確かめた。船長沼田亨氏のことだけでなく、現在祖母と生活している家も空襲された事実も知らされ、憲法に九条がない時代の戦争による人々の苦難の実態を空襲被害者、戦争被害者家庭の聞き取り調査から始めなければならないと思った。録音機、テープレコーダーを買い求めて事実収録から始動した。 空襲、戦争の実態を地域から調べ始めることにした。直接体験者を探し、関係資料を集めよう。1.調べる、2.記録する、3.慰霊する、4.後世に伝える。この方録(方針と記録実践)を45年続けて現在に至っている。結果として多くの調査記録と著書を書き、次代に継ぐ記録を続けている。
▽日本国憲法九条は世界人類犠牲者からの理想の贈り物 北海道・函館空襲の真只中、函館湾、津軽海峡などの海上で壮絶な空襲惨劇が展開中、函館市の隣り、現北斗市、トラピスト修道院、葛登支岬燈台のある前浜海岸は函館防衛の重要基地指定、当別、茂辺地には上陸用舟艇や敵軍艦に体当たり用の潜水艇が海岸に並ぶ日本軍防衛基地で、軍人が約600人駐留して訓練を秘密裏に実施していた。 昭和20年7月14日朝、悲劇が展開された。 場所(当時)上磯郡茂辺地村250番地。当時の家族奥谷喜三郎(不在)、母サト、次姉山本千代、兄雅雄(不在)、次女邦子、本人雅喜(次男) 証言者が語った場所 1. 現住所 函館市富岡町2−54−13 2. 当時空襲を受けた場所 現北斗市茂辺地の空襲跡地および奥谷家先祖の墓碑 調査日2010年7月9日(金)証言者奥谷雅喜氏。昭和10年9月15日生まれ、元小学校長
空襲時の体験 「郵便局の建っていた東側に、母親が坐っていました。私は母の膝の上に抱かれるようにそばに居ました。その向かって左側に姉の邦子が坐っていました。そして他家に嫁いだ姉が赤ん坊を背負って坐っていました。 家の上空には米軍機が飛来しているのが聞こえました。固唾を飲んでいたら、浜辺の方に落ちた爆弾による爆風で玄関のガラスが破壊され、自分は吹き飛ばされそうになってその場に耳と目を塞ぎ、とっさに伏しました。バリ、バリ、バリ、バリという機銃掃射の音や弾丸が飛び込んでくる音、弾丸で窓ガラスが破壊されて、こちらに向かって飛び散る音や振動が感じられた。 起き上がって母の方を見ると、弾丸で撃たれた傷口から大量の血が流れ横たわっていました。外の板壁を突き抜けてきた弾丸が母の左脇腹から入って貫通していたのです。隣りに坐っていた姉も同じ弾丸が首を通り左の顎の骨の位置で止まっていました。母は即死状態でした。姉は4時間後に亡くなりました。 あの時は、同時に玄関のガラス窓にはめていたガラスが飛んでいったのを目撃しているので、非常に強い衝撃でした。機銃掃射の弾丸が通過する時の風圧ではなく、近くに爆弾が落ちた際に起きたと思われます。玄関の戸が破壊される程の恐ろしい衝撃が今でも記憶に残っています」 (浅利政俊『北海道空襲証言集・茂辺地空襲』p.19より)
このような調査事例は数えきれない程収録した。 あの第二次世界大戦で犠牲になった人々に何をもって慰霊すべきか。ご供養すべきか。在野の桜研究者として自ら苦労して長い歳月をかけて育成したオリジナルなサクラを献ずべきと強く思い、奥谷サト氏、邦子氏に捧げる桜に、憲法九条誓願乙女桜(略して九条乙女)クジョウオトメという新しい桜を育成し、北斗市運動公園と松前公園に植栽している。 戦争・空襲による高齢者、女性、子供の犠牲者の記録は、第二次世界大戦の人類犠牲者からの「かたみ」である。日本国憲法九条は世界人類犠牲者からの理想の贈り物である。九条乙女は、平和を希求する理念の花である。私が作出した多くの桜のなかで、例えば紅豊のような豪華な八重桜と比べ華麗な見栄えは劣るが、他にはない特性がある桜なのである。 (つづく)
*「紅豊」(ベニユタカ) 紅色鮮やかな八重咲の大輪花(5.5cm)。東京では足立区綾瀬駅近くの路上に植栽され、染井吉野(ソメイヨシノ)が終花する前に3月下旬から咲きだす。かつて私は公益財団・日本花の会の研究専門委員として、同会事務員や大学教官らの共同調査に参加、東京の新宿御苑、多摩森林研究所(当時)、関東地区の調査をした際、染井吉野と肩を並べて互角で紅・白セットとなる花は紅豊以外にはなかった。英国では紅豊が最も人気があり、欧州各地にも広く植栽されているという。英国の桜研究者クリス・サンダース氏は紅豊をNO.1としている。 写真はいずれも、私の初任勤務校である北海道松前町立清部小学校の教え子で、東京在住の柴谷綾子(旧姓・麓)さんの撮影。駅前の紅豊は今年4月2日。
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浅利さん作出の「紅豊」(東京・綾瀬駅前)
紅豊の枝の先端部分
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