ヴァーツラフ・ハヴェルが2012年の暮れに亡くなった時、彼の戯曲について以前、このサイトで書きましたが、ハヴェルは東欧チェコの作家であり、冷戦終結後は大統領でもありました。ハヴェルの特徴は特異な言語遊戯を通して、当時、共産圏と言われたソ連・東欧圏の政治や社会をめぐる言説の空虚さを語ることでした。
戯曲「ガーデンパーティ」では、出世を目指す若者たちがその空しい言語感覚を懸命に身に着けていくさまが笑いとともに活写されていました。ノルマや、スローガン、美辞麗句、大言壮語です。かつてなら他国の、あるいは鉄のカーテンの向こう側と突き放して笑えたかもしれない日本人でしたが、今日、事態が皮肉にも極めて似てきています。第二次安倍政権以来の国会における日本語の空洞化は「ガーデンパーティ」といい勝負か、あるいはもはや独走している観もあります。
思想や表現の抑圧に右も左もありません。安倍政権の言語感覚はかつてのソ連や東欧の一党独裁政権に近い。自分たちを無謬と仮定するがゆえに、誤りを示す現実は改竄しなくてはならなくなります。ですから、必然的にそれを語る言葉もおかしくなります。2012年秋に特定秘密保護法案を通そうとしていた安倍政権の森雅子法務大臣は、法案の中に出てくる「又は」は「かつ」という意味だと国会で語って、政権の一時的な都合で伝統ある日本語を少なくとも2つ破壊してしまいました(※)。ローカル自治体には「・・・には当たらない」みたいな菅官房長官みたいな話し方をする人が複数出ていると聞きます。出世したい人々が安倍政権の言語感覚を身に着けようとするのは当然です。
チェコやポーランドなどの東欧圏はかつてソ連の衛星国家でしたが、小さな非力の国家ゆえに、風刺の技術や寓話の技術が磨かれていました。真実は表現できないか、地下で語られるのみでした。日本も戦後、独立とは名ばかりの米国の衛星国家でしたが、ソ連の衛星国家ほどには思想的な締め付けがなかったために風刺の技術は基本的に磨かれることがありませんでした。むしろ、身分差別のあった江戸時代の方がレベルが高かった。しかし、今、メディアが真実をできるだけ語らないで済ませようという傾向が強まってきたことから、ノンフィクションが衰退し、フィクションに活気があります。真実で語れないことをフィクションで語るのは古来からの常道でした。その意味では同じく、東欧圏のポーランド出身の作家、スワヴォーミル・ムロージェクの寓話集「象」(国書刊行会)も残念ながら今こそ、注目されてよい短編集だと思います。表題作の「象」は動物園に象がいないために張りぼての象で入園者をごまかす物語です。まさに国のスローガンの張りぼてぶりがそのまま笑いになった作品です。
「突然、象は身震いしたかと思うと、空中に浮きあがった。一瞬の後には地上すれすれに揺らめていたが、風に支えられて上方に動き出し、青空を背景にその巨大な全身をさらけだした。次の瞬間にますます高く舞い上がり、下から見つめている生徒たちに、広げた足の裏4つの円と、太鼓腹と、鼻の先を向けた。それから今度は風に横向きに流されて、柵の上方へ漂って行き、木々の頂きのはるかかなたに消えてしまった。あっけにとられた猿たちは空を見上げていた。象は近くの植物園に落下し、サボテンに串刺にされ破裂している所を発見された。」
幻滅した生徒たちは不良になり、象などは金輪際信じなくなってしまったという落ちがついています。
本書が日本で翻訳刊行されたのは象徴的ですが、ソ連が崩壊した1991年でした。しかし、日本がプチソ連化、あるいは東欧化してきた2020年こそ、読み頃だと思います。こうした表現がなぜ取られたのか、その動機が今ほど日本人に理解できる時代はないでしょう。ムロージェクも若い頃はジャーナリストをしていたのだそうです。本書にはムロージェクの個性的な漫画も添えられています。筆者の最も愛読する作家の一人です。
※安倍政権の「ニュースピーク」 〜特定秘密保護法の「又は」と「かつ」〜 自民党と官僚の日本語に対する攻撃が続く
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401130707231
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