・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・教育
・文化
・アジア
・国際
・入管
・中国
・市民活動
・米国
・欧州
・みる・よむ・きく
・核・原子力
・検証・メディア
・反戦・平和
・外国人労働者
・司法
・国際
・農と食
・イスラエル/パレスチナ
・市民活動告知板
・人権/反差別/司法
・沖縄/日米安保
・難民
・医療/健康
・環境
・中東
提携・契約メディア
・AIニュース
・司法
・マニラ新聞
・TUP速報
・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus
・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2024年11月21日
・2024年11月20日
・2024年11月18日
・2024年11月17日
・2024年11月16日
・2024年11月15日
・2024年11月14日
・2024年11月13日
・2024年11月12日
・2024年11月11日
|
|
2020年08月30日02時17分掲載
無料記事
印刷用
イタリア現代史ミステリー 第一弾「イラリア・アルピの死」(その1)〜チャオ!イタリア通信
身近な人が亡くなると、その人の死やその人の人生の意味を考えるはずだ。特に、その人が若いほど、なぜ死ななければならなかったのか、どうして生まれてきたのかなどなど。この問いかけに明確な答えが出ることはないと思うが、自分たちを納得させる答えを見つけたいと思うのが、人間の自然な感情であるだろう。
ここに紹介する一人のイタリア人女性の死は26年たった今も、この問いかけに対する答えを見つけられずにいる。それは家族の感情としての答えだけではなく、他殺なのか事故なのか、他殺なら誰が犯人なのか、なぜ殺されなければならなかったのか、すべてが謎のままに時間が過ぎて、今に至っている。
1994年3月20日、ソマリアの首都モガディシュでイタリア国営放送局(ライ3)の記者イラリア・アルピ(当時32歳)と彼女に同行していたカメラマン、ミラン・フロバティン(当時44歳)が殺害された。当時のソマリアは、1991年に始まったソマリア内戦の真っ最中であり、二つの勢力が南北に分かれて争っていた。1992年には、国連がアメリカ軍中心の多国籍軍を派遣したが、状況は泥沼化する一方であった。そして、ソマリア暫定大統領に敵対する勢力は、1993年に国連に宣戦布告した。同年アメリカ軍が単独で行った作戦により、モガディシュの戦いが始まる。モガディシュの戦いによって、国連軍は19名、敵対勢力は73名、ソマリア人が200名以上死亡するという激しい戦いであった。そのため、多国籍軍はソマリアからの撤退を決定する。1994年3月には、アメリカ軍はすべて撤退しており、多国籍軍に加わっていたイタリア軍も4月14日にはソマリアから完全撤退をする。イラリアとミランが、ソマリアにいた当時、国連軍の要であるアメリカ軍は撤退しており、ソマリアは無政府状態であった。ソマリアの首都モガディシュは、敵対する勢力により南北に分断されていた。
事件は、こうした混乱状態の中で起きる。3月20日朝、イラリアとミランはモガディシュの空港に降りる。そこから、暫定大統領に敵対する勢力が占領する南部のホテル「Sahati」に行く。そのホテルから、イラリアは上司に「面白いニュースがある」と電話で語る。イラリアとミランはモガディシュに着く前に、ソマリア北部の都市ボサソにいた。ボサソには、ソマリア最大の港がある。また、12時半にイラリアとミランは家族にも電話をしている。その後、二人はニュース番組のための取材をする。そして、午後、イラリアとミランは北部にあるホテル「Amana」へと向かう。車はトヨタ、運転手とボディガードがついていた。ホテル「Amana」には、わずかな時間の滞在で再びトヨタに乗って、ホテル「Sahati」に向かおうとした時、一台の車LandRoverがトヨタの前に出てきて、トヨタの動きを止める。LandRover の荷台に乗っていた武装した男たちがトヨタを攻撃する。ミランは運転席の隣、イラリアはミランの後ろの席に座っていた。ミランは、頭を背もたれにのせたまま死亡。イラリアは、後部席で、左側を下に横たわって、手を頭にかざしていた。ニュースは、すぐにイラリアが勤務するライに報告される。イタリア時間午後1時には、ニュース速報として、イラリアとミランの死亡が報道される。
攻撃の後、現場にすぐ駆け付けたのがイタリア人ジャンカルロ・マロッキーノである。約10年間ソマリアに在住している。そして、イタリア人ジャーナリスト二名とアメリカABCの記者とスイスのテレビ局の記者も駆け付ける。当時は第二次国際連合ソマリア活動として、国連主導の人道的支援活動が行われていた。この活動は軍事活動も行っており、イタリアの警察機構が当時ソマリアに存在していた。マロッキーノはそこに連絡を入れるが、現場が危険すぎるという理由で誰も来なかった。現場はちょうど、モガディシュを南北に分断するラインにあった。敵対する二大勢力が、相向き合っていたのである。結局、二人の遺体はマロッキーノの車に乗せられ、モガディシュの港に停泊していたイタリアの艦船「ガリバルディ」に運ばれる。「ガリバルディ」は、後方支援のためにモガディシュに停泊していた。そこで、軍医によって検査が行われた。その後、「ガリバルディ」から遺体は、モガディシュの空港にヘリコプタ−で運ばれた。空港には、アメリカ軍の遺体安置所があった。そこでも、検査を受ける。そして、翌日3月21日に、イタリア空軍の飛行機がやってきて、二人の遺体を乗せ、22日夜中にイタリアに到着。イラリアの遺体はローマに運ばれ、ミランの遺体はトリエステに運ばれる。それぞれ家族がいるところへと運ばれたのだ。翌23日には、ミランの遺体は墓地に埋葬される。一方、イラリアの家族は葬式を執り行うのに、2時間以上待たされた。そして、ローマの検察官が検察医とともにやってきて、検察医がイラリアの遺体を外部のみ検査する。数日後、イラリアの両親の訴えで判事が事件の調査を開始する。 (次回続く)
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
イラリアとミラン
|