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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2020年09月25日08時57分掲載
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「無頼の画家 曾我蕭白」(狩野博幸 横尾忠則)
近年、独自の作風を持つ江戸時代の画家、伊藤若冲と曾我蕭白の人気が高まっているようです。辻惟雄著「奇想の系譜」で紹介されたことがそのきっかけとされますが、二人は独自の個性と言ってもどちらかと言えば対照的な作風であり、デザイン的に美しく優しい若冲の絵画に比べると、蕭白の絵は蝦蟇仙人や鬼女、龍や人間臭い賢人たちなど、毒々しく、人間の膿を掃き出し、笑い飛ばすような画風です。そして二人とも生き方自体も常識破りだったと言われています。
新潮社刊「無頼の画家 曾我蕭白」(狩野博幸 横尾忠則)は蕭白の魅力を日本美術史の研究者・狩野博幸と画家の横尾忠則がたっぷりと語ってくれて、とても興味深い一冊です。蕭白の絵もたくさん紹介されています。末尾に収録された横尾忠則の蕭白に関するエッセイ「芸術の魔界に踏み込んだ画家」は最近、読んだ文章の中で非常に考えさせられるものでした。
「我々はもっと日常的に蕭白のような作品に触れて、それぞれの芸術的創造性に刺激を与え、自らのなかにある不安や絶望や恐怖を吐き出さないといけない。そういう体験がない人の、想像(創造)力の欠如が、現実世界での犯罪を引き起こしているのではないかと思えてなりません。いやなこと、不浄なものを吐き出してしまう必要があるんですよ。それなのに、人間と言うのは自分の中のいかがわしいものを出しきることを恐れますね」
ここで「犯罪」と言っている中身は私が思うには、無差別殺人みたいなものだけでなく、公文書改竄を指示したり、手を貸したり、と言った類の権力の側の犯罪も含まれると思います。横尾忠則はここで<浄化と救済こそ、芸術が本来果たすべき役割>と語っているのですが、それは私なりに考えると、自分の中に淀んでいる汚れたもの、すさんだものを自覚する契機が今日、なかなか持ちにくいということだと思います。制度の中でノルマをともかく果たして生きていると、一層それで安住して、自分の心の内部に目を向ける機会は乏しくなりがちです。
横尾忠則の指摘を読んで思い出したのは「呪怨」(2003)というホラー映画で、監督たちのモチーフが実際に何だったかは知り得ませんが、この映画はホラーの優れたテクニックを越えて、バブル崩壊後の日本の淀みがこの映画の根底にある怖さだという印象を持ちました。バブル経済が崩壊して、毎年3万人以上が自殺をする社会に突入していた時代です。「呪怨」は妻の不貞を疑う夫が妻子を殺害して自殺し、その後、その家に関わった者たちが次々と死んでいく物語です。私はこの映画の怖さは惨劇の起きた家族の家に入った人間たちがそこで、時間が逆行して出来事をまざまざと見せられることにあると思います。つまり旦那が首を吊るに至った経緯がビデオの早送りのようにそこで訪問者の前に再生されるのです。年間3万人としても10年で30万人もの人々が命を自ら断つ、という悲劇の時代にあって、多くの人はそうした家族とは無縁を装って生きていました。しかし、「呪怨」を見た時、そうした1つ1つの家族の姿を時間を遡行して見せられたら、どれほど恐ろしい世界に生きているか、と背筋が凍る気がしたのです。それくらい社会に中に蓄積した淀みに無自覚でいたら、その鈍感さが結果的に政治が悪しき方向に変化したとしても看過してしまうに違いありません。「呪怨」という映画は私に底知れぬ怖さを感じさせてくれたのです。
横道に反れてしまいましたが、曾我蕭白の絵にある毒を意識することで、自分の心をそこに意識的に見ることになる、と横尾忠則は言っているのだと思います。そして、まずは画家自身が描く過程において、それを自分自身で意識化するのです。「いやなこと、不浄なものを吐き出してしまう必要があるんですよ。それなのに、人間と言うのは自分の中のいかがわしいものを出しきることを恐れますね」(横尾忠則)。「浄化と救済」こそ芸術の役割だ、と横尾忠則が蕭白をもとに語ったのは非常に面白く思いました。ファシズムは芸術による「浄化と救済」という方向を取らず、抱えている憤懣のすべてを外国人に帰することで問題に直面することを避け、解決の方向をずらし、心の淀みを政治に利用するものです。失われた20年や大震災、津波、感染症、テロと言った一連の惨事が90年代以後、起きましたが、これらは「浄化と救済」を経ず、政治に利用されてきたと感じます。ナチスが表現主義を徹底的に弾圧したのもそのことが理由でしょう。
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