このタイトルを読んで、少なくとも以下の二つの疑問を抱く読者がいるのではないだろうか。第一のものは、宮本三郎は数多くの戦争画を描いたが、靉光は戦争画を描かなかったではないかという疑問である。確かに、靉光は一般的に戦争画と言われる作品を描かなかった。しかしながら、靉光の妻であったキエ夫人が、「(…)戦争画を描くのに多くは、軍人や大砲を描く、石村に言わせれば、それが蜂であってもいいじゃないか。素材の違いはあるにしても、自分は戦争の絵を描いているのだと、よく言っておりました」(靉光の本名は石村日郎である)述べているように、彼の絵は一般的なカテゴリーでは戦争画ではないが、それを戦争画と見なすことが十分に可能な時代的、テーマ的、絵画構成的な何物かが存在していると私には思えるのだ。 第二のものはこの二人の絵を比較する積極的な理由が存在するのかという疑問である。二人の画家は共に十五年戦争の時代に生きた画家である。しかしながら、自主的に作戦記録画を描いた宮本三郎と、そうした絵を描こうと思っても描けなかった靉光とは戦争画という視点から見た場合に、まったく共通性がないと述べても過言ではないだろう。だがそうであるからこそ、こうした対極のある二人の戦時中の絵画作品を比較することで、今迄見ることができなかった戦争画に関する何らかの側面に照明を当てることができるのではないか。私にはそう思われたのである。
■あまりにも有名な戦争画
4月1日から10月4日まで世田谷区にある宮本三郎記念美術館で、「宮本三郎 絵画、その制作とプロセス」という展覧会が開催されている。7月の終り、私は自由が丘の駅で降り、美術館に向かった。私はこの展覧会で「山下、パーシバル両司令官会見図」の下絵が飾られていることを知り、それを見たいと思ったのだ。 この下絵は会見に使われた椅子と机が描かれているだけのものであったが、宮本は作戦記録画を制作するとき、常に作品を構成する一つ一つのオブジェをじっくりと見つめ、下絵を丁寧に描いていたことが確認できた。それだけではなく、今回の展覧会に飾られていたスケッチを見て、彼が作品のモチーフとなるオブジェを綿密に観察し、デッサンを何枚も描き、詳細な描写を行った後で、オブジェを組み合わせ、作品を作り上げていくという方法を取っていたことも理解できた。
描写力。何よりもそれを宮本は重視した。戦争画の巨匠としては藤田嗣治の名前がしばしば挙げられる。だが、作戦記録画にとって重要なリアリティーという側面から考察した場合、藤田の作戦記録画は優れた創造性が発揮されているが、作戦記録画としての事実性という側面で脆弱ではないだろうか。作戦記録画に描かれた作品であっても、すべてが事実である必要はもちろんない。しかしながら、藤田の戦争画は彼独自の絵画世界観を強く反映している。そのため、彼は間違いなく戦争画の巨匠ではあったが、作戦記録画としての事実性から大きく逸脱した作品が多かったと述べ得る。それに対して、宮本の戦争画の多くは、まさに事実に基づいた作戦記録画であった。それゆえ、戦争画の巨匠藤田嗣治という形容は正しいが、作戦記録画の巨匠と形容できるのは藤田ではなく、宮本三郎であるように私には思われる。
宮本が描いた戦争画で最も知られている作品が「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942年) である。司修は『戦争と美術』の中で、美術評論家やジャーナリスト、学芸員、58人に対して1991年に行われたアンケートについて言及しているが、彼らが選んだ戦争画ベスト5の中にも「山下、パーシバル両司令官会見図」は挙げられている (その他の4点は藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を完うす」(1945年)、中村研一の「コタ・バル」(1942年)、小磯良平の「娘子関を征く」(1941年)である)。そして、この選ばれた絵すべてに共通する点は「(…)「写実力」、「迫真性」です」と司は述べている。だが、写実性という視点で見るならば、「山下、パーシバル両司令官会見図」がこれらの作品の中で最も写実的であり、史的事実に適合した絵画であると述べ得るだけでなく、歴史画としての意味も強く有する作品であると述べ得る。更に、この絵は日本軍の勝利の決定的瞬間を記した点でドラマティックな迫真性も持ち、日本軍が望んだプロパガンダ性という側面でも最も成功した作戦記録画である
■作戦記録画の巨匠
宮本三郎は1905年、石川県能美郡の農家の息子として生まれた。上京し、川端画学校で、冨永勝重、藤島武二に師事し、絵画を学び画家を目指す。1927年、22歳の時に二科展に初入選し、その後は着実に画家としてのキャリアを積み、1938年、33歳の時に渡仏し、更に絵画技術を磨くが、第二次世界大戦が勃発し、1939年に帰国する。帰国した翌年には中国戦線に従軍して絵画制作を行い、1941年12月に太平洋戦争画開始された数ヵ月後の翌年3月には作戦記録画制作のために南方戦線に赴いているが、「山下、パーシバル両司令官会見図」によって戦争画家としての不動の地位を築いた。
宮本は「山下、パーシバル両司令官会見図」以外にも、「南苑攻撃」(1941年)、「香港ニコルソン附近の激戦」(1942年)、「飢渇」(1943年)、「本間、ウェンライト会見図」(1944年)、「シンガポール陥落」(1944年)といった多数の戦争画を描いているが、そのどれもが写実性に優れ、迫力のある戦争画である。これらの絵を見ていくと宮本の絵画技術力の高さが瞬時に見て取れる。彼は描写力、あるいは、素描の重要性を常に意識し、強調した画家であったのだ。だが、彼はそれを単に強調しただけではない。描写することと、素描することの中にある攻撃性あるいは征服感をも意識していた画家であったのだ。
宮本は1942年1月に発刊された『画論』第5号に掲載された「素描について」という短いテクストの冒頭で、「物体の形や動勢を微妙に走る線や、物の起伏や、それを包む空間の変化、これ等は画家にとって、絶えざる魅惑となり、描くことの本能を駆り立たせる」と書いているが、ここには彼のオブジェに対する探究態度やオブジェの形態への拘りと言ったものがはっきりと語られている。この言葉に続いて、宮本は、「(…)かうした瞬間、画家がその感動を表現に移す為めには、一枚の白紙と一本の木炭があれば、その精神が対象と一体となって、充分の活動を開始する」と述べ、そこに芸術家としての喜びがあることを強調している。だが、この後に続く文の中で、宮本はオブジェを描写することの純粋な喜びの奥に隠された攻撃性や野心というものを隠すことなく曝け出している。「(…)強力に一枚の白紙を征服し、侵略してゆくことの歓喜、これは素描することの喜びを措いて外にあるまい。」彼のこの発言は作戦記録画の巨匠の極めて好戦的な側面を表しているのではないだろうか。
ここには見落としてならない根本的問題が存在している。何故なら、宮本が率先して、誇りを持って、堂々と戦争画を描いた根拠が、この言葉の中に明確に見出せるからである。宮本にとって戦争は否定すべきものでも、陰惨なものでも、悲劇的なものでも、残酷なものでもなく、高揚したエネルギーを解放する対象であったことを端的に示しているからである。だが、この問題については詳細な分析が必要であるゆえに、このセクションではこれ以上は考察せず、後述するセクションでもう一度検討することとする。
■戦争画とは呼ばれない戦争画
写実性と迫真性を画面一杯に展開した戦争画が描いた宮本三郎や藤田嗣治を表の戦争画の巨匠、あるいは、大文字の戦争画の巨匠と私は呼びたい。それに対して、靉光を裏の戦争画の巨匠、あるいは、小文字の戦争画の巨匠と呼びたい。この二分法の導入には以下の理由がある。アルチュール・ランボーなどの翻訳で知られている仏文学者の粟津則雄は『自画像の魅力と謎:自己を見つめた11人の画家たち』の中で、靉光がシュールレアリズムに惹かれていったのは、「シュルレアリスム (*ママ) こそ、まさしく「変装」の、「変身」の芸術にほかならないからです。彼は、そこで、「変身」欲求を、ありとあらゆる方向に自由に展開することが出来たのです」と語っているが、「眼のある風景」(1938年)や太平洋戦争中に彼が描いた「雉と果物」(1941年) 、「花と蝶」(1941〜1942年頃)といった作品は戦争画の偽装された形態であるように私には思え、それゆえ、戦争画に正面から取り組んだ宮本や藤田に対して、靉光を裏の戦争画の巨匠、あるいは、小文字の戦争画の巨匠と呼ぼうと思うのである。
靉光の語った「ドロだって絵は描ける」という有名な言葉がある。靉光について書かれた本を読んでいくと、彼がとにかく絵を描くことだけに自らの人生を賭けた画家であったことが理解できる。「ドロだって絵は描ける」という言葉。そこには彼が絵を描くことを常に求め、絵を描くことは彼にとって喜びであっただけではなく、大いなる苦しみの根源でもあったことが表されている。
靉光の「眼のある風景」と宮本三郎の戦争画「山下、パーシバル両司令官会見図」とを比較してみよう。色彩も、タッチも、構図も、テーマも、あらゆる点で、まったく異なった二枚の絵。この二枚の絵に共通するものは、ほぼ同じ年に描かれたという時代的なものしか存在していないように思われる。しかし、この時代性、あるいは、そこに表されている時代精神の反映は極めて重要な問題ではないだろうか。宮本の絵は前述したように、作戦記録画として、戦争遂行を望む当時の日本の支配層の意志を十分に反映している。それはラカン的に言うならば、大文字の他者の願望が明確に、見事に示された絵である。だが、靉光の絵の中で大文字の他者は乱雑に配置されたオブジェに覆い隠され、片方の目だけが正面の置かれたオブジェの奥に存在し、こちらを覗いている。大文字の他者は不気味にわれわれの視線を捕らえる。それは監視し、支配し、従属させようとする権力者の本当の目である。それは戦争遂行時に、如何に隠そうとしても、隠しきれなかった権力者が日本国民を抑圧し、命令する姿である。また、片目であるからこそ、それは権力者の真実の姿のシルウェットを表している。
宮本の絵と靉光の絵、そこには偽装と真実との逆転関係があるのではないだろうか。宮本の作品の中に写し取られた光景がカモフラージュされたものであって、靉光の作品に描かれたものがその実体であるような印象を私は受けてしまう。英雄主義やナショナリズムの高揚、華々しい勝利の記念碑の裏にある魔性の目。その目に見えない戦争の像を何とか捕らえようという靉光の姿勢がこの絵の中に見出されるように私には思われるのだ
■内なる戦争:アウトサイダー・アートとの比較
靉光の作品は内面的戦争を描写したものと捉えることも可能ではないだろうか。この特質をより詳しく分析するために、ここではアウトサイダー・アートの作家であるヴァン・ストロップの「発情」(1985年)とクリス・ヒプキスの「星とオリーブ」(1993年)という作品と靉光の「眼のある風景」とを比較してみたい。何故この比較を行うのか。今挙げたすべての作品に共通するものは内的世界の闘争状態、あるいは、内なる戦争の風景が描かれていると私には思われるからである。そこに直接戦場の風景は存在していない。しかし、これらの作品が表現しているものは隠蔽された大文字の他者への恐怖や告発であるように感じられるのである。
しかし、1962年にイギリスで生まれ、まったく絵の教育も受けることのなかったヴァン・ストロップや、1964年にイギリスで生まれ、やはりまったく絵の教育を受けていないヒプキスの作品と靉光の作品とを比較する根拠は希薄ではないかという批判の声があがることは十分に予想できる。しかしそれでも敢えてここで比較を行うのには、外的な歴史上の出来事としての戦争を描いたものだけを戦争画とすることに対して、私が強い違和感を覚えるからである。戦場のある光景を描き、戦意を高揚させたもの、あるいは、戦争を批判するためにある戦場の風景を描いたものだけが戦争画であるという考えは戦争画をあまりに狭い範囲に押し込むものなのであると思えるのである。
多くのアウトサイダー・アートの画家たちは心の闇を抱えている。現実にある風景の奥にひっそりと隠れている不気味な影を捕らえることが可能な目を持っている画家達である。現実の風景がどんなに平和そうに見えても、どんなに明るく清々しく見えても、光が当たっていない影の部分には、見知らぬ誰かのこちらをじっと見つめている目があるのではないか。それを上記した二人のアウトサイダー・アートの画家たちは鋭く感じ取っていた。常識を超えた感覚があった彼らは、その感覚で感じ取ったものを忠実に表現したのである。イギリスのアートセラピストのデイヴィド・マクラガンは『アウトサイダー・アート:芸術の始まる場所』の中で、アウトサイダー・アート作品には「(…)芸術創造のプロセス自体に固有の「狂気」(…)」(松田和也訳) があるという興味深い言葉を語り、更に、「そこでは内的・外的な現実を隔てる日常的な境界が溶解し、画材は命を持ち、作品自体が自らを生み出そうとする」と述べている。こうした状態の中に内的戦争の風景を見出すことは不可能ではなく、特に、その内奥にある隠された闘争の場や隠された支配の目を何とか捕らえようとして描かれたものがストロップやヒプキスの前述した絵であると述べ得ると私には思えるのである。
靉光はアウトサイダー・アートの画家ではない。だが、彼は時代に対する鋭い感覚を持っていた画家であった。戦争が日本中を包み込み、軍国主義の命令が、監視の目が日本中に溢れている。その戦時下の息苦しく、重く、不気味で、死の予感が至る所に漂っていながらも、それをひたすら隠そうとしている日常の異常な雰囲気。それを鋭敏に感じ取っていた靉光は戦争の実体をカモフラージュした現実の姿を的確に描写した。そこに描かれたものは戦争時の現実の雰囲気の描写であるが、それは常に戦争状態にある内面が描写されているストロップやヒプキスの作品とあまりにも類似してはいないだろうか。外部の戦闘場面をただ写し取ったものだけが戦争画なのではない。戦争はその時代の雰囲気の中にも、内的葛藤の中にも存在しているのである。
■小文字の戦争画とは何か
このテクストでは宮本三郎の表の、あるいは、大文字の戦争画と靉光の裏の、あるいは、小文字の戦争画の特質を考察してきたが、ここまでで詳しく検討できなかった「小文字の戦争画とは何か」、「時代性と絵画」、「戦争画と戦争責任」という三つの視点を導入しながら、これまで行った分析を総合化していきたい。
最初の「小文字の戦争画とは何か」という問題は、宮本三郎の描いた作戦記録画に代表される大文字の戦争画と名付け得る作品の対極にある戦争の描写を行った、上記したような靉光の絵をどのように捉えるべきかという問いである。戦争画を考える場合に、われわれはあまりにもそこに描かれた対象やプロパガンダ性といったものを中心に考え過ぎてはいないだろうか。もちろん、そうした視点は戦争画という問題を考えるために必要であり、忘れてはならないものである。だが、多くの絵画は時代的趨勢を反映するものである。それゆえ、戦争画が盛んに描かれた時代に、ある画家が決して戦争画を描こうとしなかったという事実には、戦争画を積極的に描くという画壇の趨勢に対するアンチ・テーゼが刻み込まれている。そこには大文字の戦争画のみを考察対象とした場合にすっぽりと抜け落ちてしまう問題が提示されているのではないだろうか。
この問題を詳しく検討するために、ここではジョン・オースチンの言語行為論における「発語行為」、「発語内行為」、「発語媒介行為」という概念を用いたい。何故なら、この三つの概念は言語問題を考えるためだけに有効な概念なのではなく、われわれが行うあらゆる記号操作行為を分析するために中心的な概念となるからである。では、絵画記号による発語行為とは何であろうか。それは見手に何らかの効果をもたらすことを考えずにひたすら何かを描く行為だと思われる。オブジェを正確に写し取ることが重視される行為とも述べ得るだろう。発語内行為は見手に何らかの印象や感情を植え付ける効果を狙う絵画行為である。それは絵を見た人間に怒りや悲しみや喜びといった感情を抱かせるために行う創作行為であると考えることが可能である。発語媒介行為は見手がある絵に対して何らかの印象や感情を抱くだけではなく、その印象や感情を抱くことによって、見手を何らかの方向に行動させるような絵画的行為であると見做し得るものである。
今述べた三つの行為の中で、小文字の戦争画は発語行為と発語内行為に深く関係するものであり、大文字の戦争画はこの二つの行為だけでなく、発語媒介行為とも深く関係するものであると考えられる。端的に言うならば、小文字の戦争画にはプロパガンダ性がないと述べ得るのだ。それゆえ、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」は大文字の戦争画であり、この絵が描かれた当時の日本の大衆を戦争遂行に駆り立て、戦争遂行が偉大な聖戦であることを積極的に表した作品であるのだ。それに対して、靉光の代表作「眼のある風景」は、そこに描かれた片目によってその時代の虚偽を暴き、その偽りの姿を告発している小文字の戦争画である。小文字の戦争画はカモフラージュされた悪魔の眼差しの存在について、この絵の見手に語りかけている。それゆえ、この絵は戦争に対する抵抗の一つの形をはっきりと表しているものとなっているのではないだろうか。
■時代性と絵画
このセクションでは歴史画と戦争画の差異、アウトサイダー・アートの作品とインサイダー・アートの作品の差異について考えていきたい。何故なら、この二つのジャンル的分類は絵画の持つ時代性を考える上で核心的な問題を提示するからである。先ず、第一のジャンル的差異に対して考察しよう。戦争が描かれている作品でも過去の歴史的事件としてある戦争のある風景が描かれたものは一般的に歴史画と呼ばれている。だが、歴史画と戦争画の絵画としての差異を厳密に区分することは容易なことではない。何故なら、日本美術史研究家の田中日佐夫が『日本の戦争画:その系譜と特質』(以後副題は省略する) の中で「(…)戦争画というものが、歴史画というものと密接な関係にあり、そういうものが、同時代の人々の戦争観はもちろんのこと、歴史観というものの形成に大いに関与していることは忘れてはならないことなのである」と述べているように、戦争という出来事は歴史的に見ても、ある時代の中心的機能を担う場合が多々あるのだ。それでも、この二つの絵画ジャンルの差異を問うことは必要不可欠な探究プロセスである。では、その差異は何か。その最も一番大きな差異は同時代性にあるのではないだろうか。同時代性は時代精神を担うものと言ってよい。宮本の戦争画「山下、パーシバル両司令官会見図」はまさに時代精神を担っていると述べ得るように思われる。
アウトサイダー・アートの持つ時代に対する超越性と、インサイダー・アートの持つ時代に対する帰属性という問題も時代精神と深く係わる側面が大きなものではないだろうか。アウトサイダー・アートの画家の多くは内なる闇を抱えているが、その闇は戦争といった時代的な闇とは異なり、個人の内的世界における闇である。それに対して、インサイダー・アートの画家はどのように生きていようとも外的世界の時代的趨勢に飲み込まれている。それはこのテクストの冒頭に挙げた靉光がよく言っていたという「(…)素材の違いはあるにしても、自分は戦争の絵を描いているのだ (…)」という言葉に端的に表現されている。自分の絵がどんなに戦争の風景から遠いものであっても、自分も、自分の描く絵も戦争の時代の影を色濃く映し出したものであるという強い意識を靉光は持っていた。時代性から逃れようとどんなに足掻いても、結局は時代に絡めとられてしまうことを彼は間違いなく認識していたのだ。そしてこの時代に対する従属性はインサイダー・アートの画家が時代精神や時代的趨勢の影響下で、創作活動を行わざるを得ないことを明示しており、それはミハイル・バフチンの対話理論を思い起こさせる問題である。
バフチンはあらゆる言語行為は対話的なものであると主張し、対話の最も抽象的で、不特定多数の他者との対話のレベルとして、政治、社会、文化といった側面での大衆との対話にあると語っている。それは特殊な形の対話であり、その特殊性の大きな要因は対話者である他者がしばしば目に見えない抽象的な他者であり、その抽象的な他者が大文字の他者である場合が多々あることにある。こうした対話レベルが成立するのは言語記号による相互行為においてだけではない。絵画制作においても画家が何らかの世界に属せざるを得ない以上、不特定多数の他者と必然的に対峙しなければならない。その他者が大文字の他者である場合には対話関係は強制的、抑圧的な側面で展開する。宮本の戦争画はその強制力を自らの手で増幅させ、見手をその強制力に服従させるよう機能させたという意味で支配者のプロパガンダと密接に結びついていた。それに対して、靉光の戦時下の絵は時代的な大文字の他者の支配を逃れ、その不条理な力を告発しようとしたという意味で、戦争の時代へのアンチ・テーゼになったのではないだろうか。「山下、パーシバル両司令官会見図」と「眼のある風景」を見比べると私にはそう思われるのである。
■戦争画と戦争責任
戦争画と戦争責任は戦争画を考える上に常に付きまとっている問題である。それゆえ、この問題は多くの研究者や批評家によって何度も繰り返し問われてきた。こうした議論には大きな意味があり、詳しく検討していかなければならないことは確かであるが、その検討には膨大な紙面が必要となる。それゆえここではこのテクストの探究と関係する以下の問題のみを考察しようと思う。それは戦争画問題における戦争責任を問う場合に、その責任を戦争記録画を描いた画家たちだけに押し付けてよいのかという問題である。
この問題を考察するために、私は先ず戦時中の児童画の中に描写された多くの戦場の風景や戦意高揚を示すシンボルが表現された数多くの絵と戦争責任との関連性について考えてみたい。靉光は戦争画を描こうとしても描けなかったと述べていたが、それが如何に稚拙なものであっても、戦時中に子供たちは簡単に、多分何の躊躇いもなく、時には喜びを持って、誇らし気に軍艦や戦闘機や戦場の光景を描いた。それは無知ゆえにできた行為と言い得るかもしれない。だがそうであれば、作戦記録画を創作した多くの画家も無知ゆえに、政治プロパガンダに加担したと述べ得るのではないだろうか。それゆえ、戦争を描いた児童画と作戦記録画との根本的な差異は何処に存在するのかと問うことは重要な問題である。
ここで私はドイツの哲学者ゲルノート・ベーメが『雰囲気の美学―新しい現象学の挑戦―』(梶谷真司他訳:以後副題は省略する)の中で語っている <<雰囲気>> という概念を導入して、この問題について考察したい。ある主体がある場に存在し、その場に感じる雰囲気というものは準主観的なものであり、準客観的なものでもあるとベーメは語っている。主体がある雰囲気を感じるためには、それを感じる主体がいなければならないだけでなく、その場にあるものが単に客体としてそこに存在するだけではなく、主体に対して何らかの働きかけをするものでなければならないとベーメは主張している。雰囲気という概念から宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」と靉光「眼のある風景」を見た場合に、どちらの絵にも戦争の雰囲気が存在しているのは確かなことである。更には、児童画における戦争画もやはり何らかの戦争の雰囲気というものを表していると述べ得る。
だが、雰囲気とは何であろうか。準主観的であり、準客体的なものとは如何なるものであろうか。われわれがある場において何らかの対象を知覚した時、われわれは「この椅子は柔らかい」や「この部屋は暖かい」と述べ、その知覚現象を語ることができるが、それは「〜である」という言述によって表されるものである。つまり、知覚にはある断定が存在している。それに対して雰囲気は「〜である」ではなく、「〜のようである」によって示されるものである。雰囲気は断定による真偽値による判断ではなく、近似性や蓋然性の側面が強く打ち出されたものであり、真理の範疇よりも、はるかに美的範疇に属するものである。
「山下、パーシバル両司令官会見図」も、「眼のある風景」も、戦闘場面などを描いた児童画も、戦争の雰囲気を視覚化した作品である。だが、「山下、パーシバル両司令官会見図」に代表される作戦記録画だけに存在して、靉光の絵や児童画にはないものが存在している。それは絵画の持つ雰囲気を逸脱して、絵が表すものが権力者のメッセージの代弁、すわわち、政治コントロール的な機能を強く打ち出すという点である。それをプロパガンダ性と一言で述べてもよいが、それは絵画記号体系を超え出て、政治記号学的装置になっている点を特に強調すべきである。戦争画と戦争責任の関係が問われる理由はこの絵画記号による創作を超出した別なレベルの記号作用に依拠しているからである。それは、「小文字の戦争画とは何か」のセクションで語った絵画における言語媒介行為の問題とも通じるものである。
このテクストでは宮本三郎の作戦記録画と靉光の戦時中の作品を比較していくことを通して、戦争画とは何かという問題を検討してきたが、戦争画は時代的な趨勢を強く受けた絵画ジャンルであるということが確認できたと思われる。ベーメは『雰囲気の美学』の中で、「重要なことは、雰囲気に身をさらすことによってのみ、雰囲気の特徴を規定しうるということである。雰囲気の特徴は、中立的な観察の立場からではなくて、もっぱら情動的体験においてのみ確認される」(文中の「,」は「、」に「.」は「。」に変えている)と語っているが、こうした情動性と密接に係わるゆえに時代的雰囲気は戦争画にとって大きな役割を持つ要素なのである。 戦争画の持つこの特徴は例えば、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」にも、靉光の「眼のある風景」にも共通する特徴である。しかしながら、前者の中にある大文字の他者への従属性は戦争責任の問題と直結している。それに対して、靉光が描いたものは大文字の他者の支配からは遠く隔たっていただけでなく、大文字の他者の支配への反発や拒否や告発を明確に示している。それは戦争画が持つ負の側面ではなく、力強い反抗の印を時代の中に刻み込んだ戦争画も存在していたことを示している。この対照性は戦争画問題考察への新たな探究視点となり得るのではないだろうか。それゆえこの探究視点は興味深いものであるが、ここではこれ以上検討する余裕はない。
最後に、『日本の戦争画』の中で田中比佐夫が語った言葉を引用してこのテクストを終えたい。何故なら、戦争画という問題を考える上で、この言葉は極めて多くの示唆に富んだものであるからである。田中は「戦争画というものは、地球世界の直面している危機を先取りする形で、その存在そのものをあやうくしているようである。しかし、それでも私たちは、戦争のおそろしさ、悲惨さ、残酷さを、なんらかの表現手段で表現しなければならないときだと思うのである。そして表現することでそのおそろしさを克服しなければならないのである」と述べている。宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」と靉光の「眼のある風景」とを並べて見たとき、私は田中のこの言葉の重みをはっきりと感じるのである。
髭郁彦:記号学
初出:宇波彰現代哲学研究所ブログから許可を得て転載
ちきゅう座から転載
■非在の存在性:岡本太郎と沖縄 髭 郁彦(記号学)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202006062005406 ■戦争と人種差別 髭郁彦:記号学
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202006241938133 ■対象の束と歴史的動き:『「大正」を読み直す』私論 髭 郁彦(記号学)
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