安倍首相が辞任した。7年にわたる長期政権が終わり、安倍首相の悲願だった改憲も頓挫した。安倍首相は安保法制などを強行採決で通したことで、名を捨てて実を取ったと留飲を下げているのかもしれない。いずれにしても、安倍首相は2016年あたりまでは躍進していたが、それ以後はスキャンダルや反対する人々の抵抗にあって、いつしか推進力を失ってしまった。
この失墜の原因は何かと考えると、人によって答えが違うと思うが、私は安倍首相に雄弁術(※)がなかったことが大きな原因ではなかったかと思うことがある。雄弁術とは仲間を喜ばせる演説法ではない。反対する人々や懐疑的な人々を説得するための演説の技術である。自分の仲間内だけを尊重し、反対する人々を「あんな人々」と切り捨ててしまったところが、雄弁術を持たない政治家の致命的な弱さだと思う。憲法を改正するためには野党を説得し、学者を説得し、国民を説得し、外国人を説得しなくてはならない。もちろん、改憲に外国人の承認はいらないのだが、だからと言って外国を無視することはできない。
この雄弁術だが、さきほど安倍首相を批判してみたが、実際にはとても難しい技術だと思う。そもそもスピーチ原稿を見ないで何分か、話し続けること自体でも結構難しい。私は日仏会館でフランス語のスピーチコンクールに出場したことがあって、その時、7分間、フランス語で原稿を見ないであるテーマで話をしなくてはならなかったが、わずか7分でも難しい。スピーチ原稿を頭に入れて話す分には日本語であれ、フランス語であれ、実質は同じである。フランス人は(とくにエリートだろうが)こういう訓練を若い頃、受けているらしいのである。国際会議で堂々と自説を説得力を持って、反対勢力も多数いる中で語るためには、それなりの修練が必要なのだ。
それを考えてみると、この間の自民党の総裁選の3人の候補者たちはいずれも雄弁家には見えない。特に菅義偉元官房長官は、その長い間の質疑でみんなも知っているように、極力、自分を見せず、逃げて逃げて逃げまくる保護色のような語りの人である。他の2人も決して大衆を引き付ける雄弁術を持っているようには見えない。自民党が数の力で政策を強引に決めれば決めるほど、自民党議員の相手を説得する雄弁術のポテンシャルが低下してきたように思えるのだ。雄弁術がなくても局地戦ではコツコツ勝ち進めるが、大きな戦いになると、雄弁術のなさが最後は足を引っ張ってしまう。このことを考えれば、自民党の未来は暗澹たる地獄かもしれない。
安倍首相の場合、もし本当に改憲したかったのなら、たとえば9条の改憲が最大の目的であったなら、「戦後レジームからの脱却」という言葉よりも、日本の過去を徹底して反省していることを国民や海外の人々に示した方がよほど説得力が増していたと思う。しかし、安倍首相がとった方向性はその反対だった。子供が自分がやりたいことをやりたい、だって僕やりたいんだもん、と言って叫んでいるようなものだ。雄弁術に於いては反対者、懐疑している人々の心をまずつかむことが大切である。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」における、シーザーが暗殺された直後に行ったアントニーの演説がその見本だろう。私は政治学者ではないので、詳しく知らないが、自民党にはかつては雄弁家が何人もいたのではないだろうか。自民党が本当に強い政党になるためには、雄弁術を復活させる必要があるし、それは言葉だけでなく、相手を尊重する心を取り戻すことが大切だと思う。
※雄弁術(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%84%E5%BC%81%E8%A1%93-144893 「古代ギリシア・ローマで発達した演説の技法。その理論的体系的研究を修辞学という。法廷と民会で陪審員や民衆を説得する必要から,前5〜4世紀の民主政の時代にアテネで,シチリア島のギリシア植民地に芽生えた修辞学やソフィストの対話術の影響のもとに急速に発達して,イソクラテスやデモステネスを頂点とするいわゆるアッチカ大雄弁家を輩出,ギリシア散文の発達に貢献し,高等教育の最重要科目に指定された。ローマでも同じ理由から共和政時代に発達し,大カトーやグラックス兄弟など大雄弁家が続出,キケロにいたって頂点に達したが,共和政崩壊後は単なる修辞に堕した。」
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