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2020年11月20日11時21分掲載
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社会
<a care-worker's note・3>共感をもって協力し合う介護「ユマニチュード」について その1 転石庵茫々
介護学校修了後の2016年4月1日から始まった、介護付き有料老人ホームでの介護職の仕事も、4月も半ばくらいになるとだいぶ慣れてきて、少しは周りが見えるようになってきた。介護職員は男性が多く、20代から60代までおり、女性は中高年が多かった。主任、副主任とも初老の男性で、基本的にほかの介護職員から信頼されており、介護職員間での派閥やいじめなどはないようだった。僕にとっては、20代前半の青年含め、全員が先輩であり、そう割り切るとだれにでも教わることがあり、居心地は良かった。
◇入職1か月で転職を決める
問題は、ともかく忙しいことだった。例えば、「入居者全員の毎日の生活記録を書く」という介護職担当の仕事は、さすがに、現場の作業をこなしながらできることではなく、残業はしたくないので、昼休みに行っていた。昼食を急いで食べ、毎日の生活記録を手分けして書くことになり、昼休みの時間はこの作業に費やされることとなっていた。休憩室があるわけではないので、2階の入居者個室が並ぶ中にある、スタッフの待機室、6個ぐらいの椅子と机が置いてある細長い部屋で身を寄せ合って弁当を食べて、生活記録を書きながら雑談をするのが昼の楽しみだった。
入居者は、女性7割男性3割、全体の7割ぐらいが車椅子か、寝たきりだった。残りの3割のひとたちも認知症や体の障害がある方たちで、トイレや入浴を自力でできる人は非常に少なかった。
施設の建物は、3階建てで、1階は、受付事務室、大浴場、大食堂、吹き抜けデイルーム、2階は、入居者個室とスタッフの待機室、3階は、入居者個室となっており、ある大企業の独身寮であったのを購入し、段差をなくしたり、廊下に手すりを設置するなどの改良を少し加えただけで、使用していた。トイレは各階に共同トイレ、1階の大浴場は文字通りの大浴場で、着替え室の横に寝たきり入浴のための機械一式が新設されていた。入浴は、大浴場を使用して、時間帯による男女別で、別の日に機械浴が設けられていた。
この施設は、若い独身男性健常者用に設計されており、体に障害のある人や車イス生活の人たちが生活しやすいようには出来ていないため、廊下も共同トイレも皆で食事する1階食堂も狭かった。また、職員の着替え室もなく、物置を着替え室代わりに使っていたし、その物置への扉は大食堂の隅とはいえ、早番で来て夕方に帰るときには、食事中の入居者の後ろをカニのように歩いてゆかないとたどりつけないありさまだった。 この施設は、高齢者用施設としては建てられていなかったため、使いこなすのが難しくはあったが、そのなかで、スタッフは入居者ができるだけ快適に過ごせるように、頭と体を絞って奮闘していた。
僕は、右も左もわからない新人として、先輩スタッフにいろいろ教わり、また、入居者からもアドバイスを受けたりしながら、1日中駆けずり回り、へとへとになり、帰るときには、施設前の自販機でペットボトルを買い、20メートル歩かないうちに飲み干し、また、次の自販機でペットボトルの大びんを手に入れ、体に流し込んでいる毎日だった。
そんなペットボトルを飲み干していた、4月も終わり近くの帰路で、介護専門のリクルート会社からの連絡を受け取った。学校修了時での僕の就職希望先は、「24時間看護師が待機している施設」で、この条件を付けた求職通知は、そのままにしていた。「看護師24時間待機」の有料老人ホームは、全体の15%にも満たない数らしい。この条件に適った施設から求人があるので、いかがでしょうか?ということだった。今の職場は、まだ、1か月しか働いていないので、と断ってみたものの、相手の話を聞いているとその施設は今の勤務先よりも自宅からかなり近い場所にあることがわかり、最寄りの駅までの20分の帰路を喉をからして歩いていた僕は面接を受ける気になっていた。
スタッフ、入居の方々とも個性的な人たちに出会って、戸惑っていたとはいえ、60代の新人を暖かく迎え入れてくれた職場には感謝していたが、このまま長くいることは出来ない気もしていたので、一気に、転職することにした。
◇「する/される」ではない介護に気づく
最初の職場の介護スタッフに教わった中には、いまだ、身についていないこともある。例えば、ある先輩から、「介護職の1年目は、介護(職の技術や作法)のことを学び、2年目は高齢者の病気について学び、3年目は高齢者が多く服用する薬について学びなさい。」と言われたが、4年半の介護職生活を経ても、まだ、全部の項目を学んでいる最中だ。特に難しい薬の知識はいうまでもなく、介護や病気についても学びきれていることはひとつもない。このアドバイスは、介護職を続けてゆくうえで、初心の謙虚な向学心を忘れないための大切な言葉になっている。
また、ある利用者さん(高齢者施設の入居者及び介護保険の利用者の一般的な呼称)からは、思いがけなく、介護の本質について考えるきっかけをいただいた。
80代後半の男性で中肉中背筋肉質、見ても触れてもがっしりとした体の方だったが、脚に障害があらわれ、自力での立位と歩行が困難になり、生活に必要なベッドと車いすとの移乗を自力では、できなくなっていた。そのために、毎日午前10時には、ベッドから車いすへ移乗するお手伝いをその日の担当介護がすることになっていた。 ベッドに端座してもらい、ベッドに横付けした車イスへと、一応習ってきた方法でもって利用者さんの体を動かそうとしても重たくて動かない、僕も次の作業のことを考えたりしてイラっとしてきて、ついに禁じ手である、利用者さんの両脇に腕を差し入れ、ぐいっと力づくでリフトのようにからだを持ち上げる方法で移乗してしまった。
「痛いなぁ、そんなに力入れて持ち上げたら君も大変だろうし、ワシも痛いんだよ。」
同じことが二度ほど続いた後に、その利用者さんは、ワシの言うとおりにしてみなさいと、 「正面で向かい合って腰を落として、君とワシの重心の高さを同じにして体を密着させ、両腕を使って包むようにワシを抱えようとする君のやり方はよろしい。その後に、ワシが頭を前に傾けて体を君に預けるとワシのお尻が自然に上がってきてワシの体が浮いてくるから、そのワシの体の浮いた動きにそってワシと一緒に立ち上がるんだよ。力は抜いてワシを支えるようにするだけでいい。いいかい、いくぞ。」
2〜3回やるうちに、何となくコツがつかめてきた。その利用者さんは、僕に体を預けて僕を支えにして山なりに立ち上がりいちど立位をとり、ゆっくりと車イスの方へ山なりに下りてゆくのだった。確かに、利用者さんの体の動きに合わせて軽く支えるだけで、力づくで利用者さんを釣り上げてやることではなかった。
「おっ、今日は良いぞ、わしも楽だった。」 「今日はちょっと痛かったなぁ、座るときにあわてて、ぐいっと力は入ってたなぁ」と毎回移乗されたときの感想を教えてくれた。2週間ぐらい経った時に、「もう大丈夫だ! 君はできるようになったぞ。」と、嬉しそうに笑ってくれたのだった。
僕も何度もやるうちにだんだんと思い出したが、同じように力を入れずに相手の動きに合わせて移乗する方法は、学校でも習っていた方法の核心部分だった。理解はしているつもりだったが、利用者さん相手の現場では、まったく実際の動作がついてゆかなかった。利用者さんとの言葉と体を介したやり取りで、やっとコツみたいなことがつかめた。
この利用者さんとの体と言葉を介したやり取りは、高齢者介護や介護一般の作業について、あらためて考える大きなきっかけとなった。
どういうことかというと、現場で介護を実践してゆくなかで、いつのまにか、「介護する人」「介護される人」という能動受動の関係が無意識のなかで作業の前提として固定されていたことに気づかされたのだった。介護する人は、能動的に自分のルールあるいは大勢の介護職で通用しているルールで介護することになりがちで、介護される人は、あくまで、受動的になり、医者に体を預ける病人のようにされるがまま(と言っても文句や抗議はある)になりがちだという、介護する/される関係が当たり前になっていたようだった。 わがままな僕自身は、する側かされる側かのどちらの立場にいても、自分のやりたいようにやって欲しいようになることを望み、どちらの立場からも相手に対して、自分の方法を一方的に強要するであろうことはすぐに想像できた。
しかし、それで良いのだろうか?ということを、この利用者さんとの移乗に関するやり取りの中で感じ始めていた。利用者さんも喜び、僕も上手くできて楽しかったのは、一方的なやり方ではなく、初めは利用者さんからアドバイスを受けていたとはいえ、利用者さんと僕が協力し合ってできた様式だったように思えてきていた。 「する/される」という関係から脱して、ともに協力し合う関係を作ってゆくことは、「介護」という作業の根幹にかかわることに思えてきたわけだ。
介護(特に介護技術)には、どうしてもする/されるという能動受動の役割分担があり、そのことで見えにくくなっているが、利用者さんとの共同作業に近い介護技術というものがあり、それが実は、介護の根幹にもともとはあったんじゃないかということをおぼろげに感じ始めていた。
そこで、する/されるではない介護技術や、利用者さんとの共同作業としての介護作業やそれを支える基本的な考え方について書いてある介護技術の本はないかと探し始めた。介護についての基本的な考え方を書いてあるだけでは、経験の浅い僕には、抽象的で理想的過ぎたので、もっと介護技術そのものが具体的に書かれてあることにこだわってみた。
ここで誤解がないように添えると、およそ一般的に普及している介護技術は、これまでの介護職従事者たちにより切磋琢磨されてきた内容で、その元をたどれば、なるほどという介護についての基礎概念があり、それはする/されるという概念ではなさそうだった。ただ、その根幹にある概念を介護の現場に携えることのできるコトバに一端はしておかないと忙しさの中で目の前の問題の解決、とりあえず力づくでもなんでも移乗させようとかに、なってしまい目先の「する」技術で終始することになってしまうというのが僕のひとつのあさはかな危機感でもあり、それでは困るというのが、僕の差し迫っての意識の方向でもあった。
そして、出会ったのが、「ユマニチュード」という介護の概念であり、技術であり、考え方だった。
◇「ひとりでは生きてゆけない」という人間観からの発想
「ユマニチュード」は、フランス人のイヴ・ジネスト(男性)とロゼット・マレスコッティ(女性)が共同開発した、介護についての新しい考え方とその技法だった。
「ユマニチュード」は、介護とは「利用者さんと共同して何らかの目的を達成する行為」として行うことであるということから発想されているようだった。そのために、共同で行うための、介護職/利用者さんとのあいだの協力関係、信頼関係を築くことの重要さを説くだけでなく、協力関係を築くための具体的な技法を詳細にまとめ紹介している。新しい考えから新しい技法を育てた喜びにあふれた語り口は、世界中の介護職へこの新しい考えと技法を提案し、謙虚に意見交換をしたがっているようだったし、この提案の内容は僕の探していた方向にピッタリだった。
「ユマニチュード」は、フランス語で「人間らしさ」を意味している。誤解を恐れずにシンプルに表現すれば、「ひとりでは生きてゆけない」ということを人間だれもがもつ「人間らしさ」と捉え、それを基にした介護の考えと技法ということになる。「人間はひとりでは生きてゆけない=人間は協力し合ってゆかねば生きてゆけない=介護という人間関係にかかわる作業も協力し合ってこそうまくゆく=ひとりからの一方的なやり方では介護はできない」と自分なりに置き換えてもみた。
さて、とっかかりとしては、以下の2冊の本を読んでみた。 「ユマニチュードという革命」(成文堂新光社) 「ユマニチュード入門」(医学書院)
「ユマニチュードという革命」は、開発者たちが、自ら、開発の経緯、どのような体験を重ねてユマニチュードに辿り着いたかをありがたいことに日本人向けに語っており、そこに出てくる体験例とそれについての開発者の感想であり、それらは、介護の現場の人が、そこで起きていることから目を背けずにきた生々しい証言であり、ユマニチュードが生まれてきたのはまさに生々しい現場であり、そこから発見開発してきた哲学であり、技法であることがよくわかる。その痛々しい内容をぜひ実際に読んでいただきたい。
「ユマニチュード入門」は、ユマニチュードの基本的な考え方と技法をわかりやすく解説した内容で、介護職にとっては、イラストも多く、教科書的に理解しやすく、すぐに現場で使えるようになっている。
この2冊が相補い合って、ユマニチュードへの理解を深めることができる気がする。
◇ユマニチュードの基本的な考え方
ユマニチュードの最も基本的な考えから見てみよう。 そこには、「介護に必要なのは、感情と優しさ」とある。 個人の感情を持ち込むなと言われる現場、相手の気持ちを考えるのは重要だが対応が感情的にはなってはいけないと言われる現場に慣れている僕にとっては、感情は扱い要注意なものであるので、「感情」という言葉が優しさということばとセットであっても、いきなり登場するのは、意外だが、いっぽうで、やはりそうなのかという安心感もあった。
「感情とは、ただの心理的なものではなく、体そのものと密接に結びついたものだ。」つまり足や手をはじめとした体が感情を生み出す根源なのです。ですから、ケアする人に感情を忘れろというのは、外科医に、「自分の手に麻酔をかけて手術してください」というのと同じことです。 (「ユマニチュード入門」より引用)
ここでいう「感情」とは、ひとりでは生きてゆけないわたしたち人間が、他者との親和関係を作ってゆくために必要なものとして取り上げている。えてして介護の現場にありがちな、勝手な親切や「本人にとって良いことをしているんだ」という一方的な思い込みや同情とは全然違う。表現を変えると、わたし(介護者)と他者(利用者さん)とのあいだに共感が生まれることにつながる感情のことだと言っている。
知らないどうしのあいだで共感が生まれるという人間的な出会いと関係づくりが、介護の現場の基本にあることを宣言しているわけだ。
だが、実際の介護の現場では、介護する人と介護される人という出会いから始まる。では、その環境で介護する人は、よい人間関係を作るためには何から始めればよいのだろうか、という実際に即した問いが浮かんでくる。
注)ユマニチュードでは、介護する人を介護看護含めた広い意味で「ケアする人」と呼ぶ。
「ケアする人」は利用者さんに対して、まず、何をするどんな人でしょうか、という問いに、具体的な答えが示される。 ケアする人とは、職業人(プロフェッショナル)であり、健康に問題のある人に次のことを行います。 レベル1 回復を目指す レベル2 現在の機能を保つ レベル3 レベル1,2ができないときは最期までそばに寄り添う
例えば、レベル1は、肺炎を治すこと、レベル2は、脳梗塞後のマヒが進行しないようにすること、レベル3は、末期がんの緩和ケアを行うこととあります。
これによって、職業人としての介護者(ケアする人)である僕にとり、目の前にいる利用者さんへのケアのレベルを把握するということが、利用者さんとの関係を築く第一歩であることがつかめてくる。新人で戸惑うのは、利用者さんに対して、自分が何をすべき人間なのかが、わからないうちに目先の介助に手をつけてゆかねばならなくなり、自分は利用者さんのたんなる使用人なのかとかますます自分の立場が分からなくなってきてしまうことだった。
職業人として、相手の障害のレベルを見極めて評価し、自分との関係づけを設計することは、ここから始まる共同作業にとってとても大事なことだ。利用者さんの健康レベルを誤ったまま始めるケアが、大きな害になるケアになっていくことは、少ない経験のなかでもわかっていることでもあり、頻繁に起こりうることでもあった。
◇「害になるケア」について
「ユマニチュードでは、強制的ケアをゼロにすることを目指します。」とあり、害になるケアのなかでも、実際の現場で起きている強制的ケアについて特に注意を促してゆく。
具体的には、「(利用者さんの)睡眠を妨げない」「(利用者さんの)抑制はしない」「(移乗など利用者さんの体をうごかすときに)わきを持ち上げない」という3つが、実際の現場でありがちな「害になるケア」の代表例だ。
冒頭の移乗のエピソードで、僕が最初に利用者さんにした行為、利用者さんの両脇に僕の両腕を突っ込んで力づくで「わきを持ち上げる」が、害のあるケアとして指摘されている。
この3つのことは、僕の経験だけでなく、介護者のだれもが害のあるケアであることを感じながらも、行わざるをえない状況に出くわし、実行してしまった後に、やりきれない「罪悪感」に襲われる重要な行為でもある。
この3つのことは、施設という集団生活、すなわち利用者さんの、ケア従事者の、そして両者の複層的な集団生活の中での介護に従事している僕にとっては、実に切実な問題になっている。睡眠を妨げなければ、オムツ交換(特に真夜中の)は不可。利用者さんのわがままや希望を心身で抑制をしなければ、食介も入浴介助も困難になる場面がすぐに思い浮かんでくる。プロとしては、ケアを優先させれば、嫌がる利用者さんに強制的ケアをせねばならないのではないか?という思いとそれをしたときの罪悪感にとらわれた嫌な感じ、だ。
「抑制はしない」ということで思い出すことがある。
僕の勤務する施設は、あるグループ会社の一員だが、グループの施設の中には、定時に利用者全体に排泄介助(トイレ誘導、オムツ交換)をすることを行っていない施設があるということで、当施設でも、利用者さんの希望するときの個別排泄介助を行い、定時の強制的な排泄介助を全廃することを考えている、と、朝礼で施設長が発言したことがあった。とても素晴らしい。介護職として、強制的なケアを受けるときの利用者さんの嫌さを身近で感じていることも多いため、とても素晴らしいと思った。
しかし、例えば、トイレ介助が30人ほどの利用者さんへの個別対応でバラバラで行われるとして、その作業の一部、いわば数人に対するトイレ介助が、食事の時間に重なれば、個別のトイレ介助にかかわる介護職の人数プラス食事の準備にかかわる介護職の人数、となり、介護職の人数はどれだけあれば足りるかといった問題が起きる。この問題は、他のいろいろな介護の場面に必要な員数にかかわる問題で、施設の総合的な運営システム(継続を可能にする事業としての経済効率に基づいた施設運営)の在り方に直結している。すぐに今の運営システムのまま、個別対応のトイレ介助を行えば、人手不足や人員配置のミスによる混乱を招き、利用者さんも介護職も疲弊するだけだろうぐらいは想像はつく。
また、オムツ交換などの排泄介助あるいは介護全体を個別対応で行うのは、利用者さんと介護職の双方がお互いにこの人とならば、介護作業を行ってゆけるだろうという信頼に基づく親和関係がないとおそらくできないだろう。すると、今のような、利用者さんも介護職も相手を選択することなく、利用者さんは施設経営者と契約し入居する、介護職は施設経営者と契約し入職する、そして両者は介護の現場で初顔合わせするといったシステムでは難しいのではと思えるのだった。
ユマニチュードの基本的な考え方に入ってゆくしょっぱなで、施設での介護の現場を構成している運営システムの実状と齟齬をきたしてしまいそうだ。
経営者のなかには、ユマニチュード的な考え方とその具体的なやり方について感激して、ユマニチュードの技法を現場に持ち込もうとする人が少なからずいる。ユマニチュードがそれだけ素晴らしい内容の提案でもあるからだ。
しかし、介護職にとっては、利用者さんとの信頼関係にもとづいた介護関係を築く上で最良のバイブルとなるユマニチュードも、経営者から現場にその技法だけ押し付けられるとしたら、それは、介護職にとっては、抑圧のひとつでしかないことも、確かだろう。 では、ユマニチュードの具体的な技法を見てゆこう。 (つづく)
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「ユマニチュードという革命」





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