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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2020年12月24日13時56分掲載
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政治
天安門事件と天皇訪中 外交文書公開に見る日中の政治的思惑の一致とその後
外務省が23日に公開した外交文書は、1989年6月の中国の天安門事件をめぐり、中国の人権弾圧を非難する翌7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)の政治宣言に日本が難色を示していた事実を明らかにした。日本は対中関係重視の観点から、中国への共同制裁を主張する欧米の姿勢は、中国を国際的に孤立させるもので得策でないと判断した。同文書には、事件翌年の90年に訪日した中国の呉学謙副首相が海部俊樹首相に平成天皇の訪中を招請、92年に天皇訪中が実現した経緯も記されている。日中両国政府のこうした動きは何を意味するのだろうか。(永井浩)
▽政治的カードとしての天皇訪中 日本経済新聞の皇室担当記者を長年つとめてきた井上亮は、平成天皇の内外の旅への同行取材記をまとめた『象徴天皇の旅』(平凡社新書)で、「政治からまったく離れた天皇の外国訪問というのはありえない」というある外務省幹部の認識を紹介し、井上自身の見方をこう記している。「天皇の外国訪問は親善のみが目的であり、政治性はゼロというのはいわば顕教的見解であり、日本政府は密教的スタンスで『天皇外交』を政治的カードとして活用してきた」
「顕教」と「密教」とは、戦前の天皇制について哲学者の久野収が分析した用語で、前者は、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主として国民に信奉させる建前のシステムであり、後者は、そうして動員された国民のエネルギーを国政に利用するために支配層が申し合わせた統治システム、すなわち立憲君主としての天皇の位置づけである。久野によれば、明治日本の国家は「この二様の解釈の微妙な運営的調和の上になりたっていた」。井上の記述は、平成の天皇外交についても、国民向けのプロパガンダ的側面とその裏に潜む冷厳な政治的側面を混同してはならない、ということであろう。
平成天皇の外国訪問が政治的カードとして活用された顕著な例が、1992年の訪中だった。訪中は国交正常化20周年の友好親善が目的とされたが、その背後には日中両国の政治的思惑の一致があった。 天皇訪問を強く要請したのは中国側だった。中国は89年の天安門事件を重大な人権弾圧と非難する西側諸国から経済制裁を受け、国際社会で孤立していた。国際的包囲網を突破するため中国は日本への接近を強め、その象徴的セレモニーとして天皇の招請を日本政府に働きかけてきた。公開された外交文書によると、中国の銭其シン外相は日中外相会談で、「天皇訪中が実現すれば、西側各国が科した中国指導者との交流禁止を打破できる」と語った。また天皇の訪中が実現すれば、過去の戦争について何らかの「お言葉」が公表され、侵略戦争を否定する日本の反中勢力の日中友好反対の根拠を失わせることになるとの読みもあった。
一方、日本側も90年代に入って対中関係正常化を模索し始める。戦後の対米従属一辺倒の外交からの脱却と中国孤立の長期化による経済的デメリットなどが考慮された。そして、天皇訪中により「のどに刺さったトゲ」である歴史問題に区切りをつけるという狙いがあった。
天皇訪中に対して、自民党の保守派には「天皇の政治利用だ」との反対意見が強かった。左翼勢力も「天皇訪中は戦争責任をうやむやに決着させるもの」と反対した。だが、日中の共通利害が反対論を押し切って、長い日中交流史のなかで初めての天皇訪中という画期的な出来事を実現させた。
10月23日に北京に到着した天皇は、楊尚昆国家主席主催の晩さん会でお言葉を読み上げた。「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」。席にもどった天皇に、楊主席は「温かい言葉に感謝します」と声をかけた。「お言葉」全文が翌日の人民日報に掲載され、テレビでも伝えられると、天皇、皇后の車に沿道の市民が手を振り、拍手も起きるようになった。
日本の各メディアも天皇訪中は大成功と評価するものが多かった。各紙の社説を追うと、毎日は訪中を日中新時代の幕開けとして「陛下のお言葉とお人柄が、中国国民に好ましい印象を残すことを期待」し、お言葉を受けた読売は「中国国民がお言葉の真意を理解してくれることを願わずにはいられない」と書き、朝日は天皇、皇后の帰国を控え「訪問は中国の人々の天皇観を大きく改めるきっかけとなり、相互理解を広げる成果を生んだ」と評した。天皇訪中を同行取材した日経の井上も、「日中の様々なわだかまりも、今回の両陛下の訪問で解消されたのではないか」と思った。
外交文書によると、こうした日中両国政府の関係改善の動きと並行して、中国の李鵬首相が天安門事件で形成された対中制裁包囲網による経済苦境を打開しようと、民主化弾圧を理由に凍結されていた第3次円借款の再開を水面下で打診してくる。これを受けて、日本の経済界代表団が訪中、帰国後に中山太郎外相に「今動けば将来10倍、100倍得るものがあろうと」と報告した。政府は即座には賛同しなかったが、事件翌年90年7月の先進国首脳会議(ヒューストン・サミット)で、欧米に先駆けるかたちで海部首相が供与方針を表明、同年11月に凍結解除に踏み切った。
▽対中外交は成功したか? では、天安門事件後の日本の対中外交はその後、どのような成果をあげただろうか。外交文書公開を報じる毎日新聞に、「『裏目』に出た支援」と題する阿南友亮東北大学教授(中国政治史)の以下の談話が出ている。 「日本政府は中国の改革・開放政策を支援して徐々に体制転換していくことが最善の選択肢と判断したが、結果的に裏目に出たと言ってよい。民主化運動の弾圧を主導した共産党幹部が政権を握った以上、改革・開放は元通りにならないとなぜ判断しなかったのか疑問が残る。その後、共産党政権は排外主義と軍拡に走り、民主化に向かわず独裁色を一層強めた。この30年間で支援を続けてきた前提が崩れ去ったという現実を日本は直視すべきだ」
もうひとつ、天安門事件後に日中関係改善の切り札と期待された天皇訪中の成果はどうか。訪中同行時にはそれを高く評価した井上記者は、「いま思うと、若さゆえのナイーブな期待であった」と、平成時代の終わりを間近にした先の著書で述懐し、天皇訪中による歴史問題の一発解決など幻想にすぎないという。「成功」報道には、中国の一般市民の声がほとんど伝えられていなかったからだ。
日本からの180人の大取材陣は、訪中前の外務省ブリーフィングで、北京ほか天皇の訪問先の街頭での一般市民の取材は不可と念を押された。中国政府からの要請だという。記者が天安門広場を歩くことは許されたが、そのさいも中国政府の「記者接随員」がぴたりと寄り添い市民からは隔離された。天皇、皇后の行く先々で歓迎の手を振っていたのは、中国政府が動員した「官製市民」だった。よく見ると、そのなかに能面のように無表情な人びとがいたことを井上は記憶している。だが、同行記者ではない、北京駐在の特派員には市民への取材のしばりがなかったため、朝日新聞には「お言葉」に対する北京市民のさまざまな声が北京支局電として伝えられた。
国営商店の従業員(37)は「過去を謝りたいという気持ちは、この言葉でもわかる」としながら、東北地方(旧満州)に天皇が行かないと知って不思議そうな顔をした。「東北が一番長く占領されたのに」。繁華街、王府井の個人経営者(24)は「民間賠償や従軍慰安婦の問題にまったく触れていない」と不満そう。列車を待つ安徽省の会社員(32)は「昭和天皇は皇軍を指揮した最高責任者だ。昭和天皇の時代に誤りを認めて謝罪すべきだった」。旧満州の黒竜江省から来た主婦(54)は「謝る、謝らないの言葉の問題よりも、今後、二度と戦争を繰り返さないことを行動で示すことが大切だ」。戦時中、同胞が日本軍に殺害されるのを数回見たという農民(70)は「天安門で一言『すみません』と頭を下げれば、中国人の気はすむんだ」。米国系企業に勤める女性(38)は「謝罪の気持ちはあると感じます。しかし、中国人が負った傷は深すぎましたので、これで完全にいやせるもんではない」。
歴史認識の問題が日中の友好親善の真の発展をさまたげている状況は、現在も基本的に変わっていない。
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