2020年は、コロナ禍により予想もしなかった出来事が次々と起こり、今までごく普通にあり、特に注目もされていなかったにもかかわらず、実は、社会を支える上で欠かせない職業であった、スーパーの店員、清掃員、医師や看護師、介護労働者などのエッセンシャルワーカーと呼ばれている人たちへの関心が高まり、コロナ禍の危険の中で、他者のために働く、その姿勢に<ケア>の精神を、その行為の背景に<ケアの倫理>ともいえる職業倫理を感じ取った人も多いと思います。
コロナ禍が高まり長期化することもはっきり見えてきた、2020年7月に文学系の月刊誌『群像』8月号に英文学者小川公代氏による『“ケアの倫理”とエンパワメント』という文章が掲載され、時宜を得たテーマと思いもよらないハードな切り口とソフトな語り口で評判になりました。 私も、この文章を読んで刺激を受けたひとりです。 今回は、介護付き有料老人ホーム介護福祉士の立場から、この文章にあるケアの倫理とエンパワメントの可能性を探ってゆきたいと思います。
◆介護職と女性
介護職は、施設等で働く<介護職員>と要介護者の自宅にゆく<訪問介護>との二つに分かれます。 私は、施設で働いているので、要介護者の自宅へゆくことはなく、訪問介護の経験もありません。<介護職員>と<訪問介護>の両方を経験したうえで、どちらかを選択するひとも少なからずおり、なかには、両方をこなしている人もいます。 施設等で働く介護職員の男女比は、男性が24.2%、女性が73.6%、となっています。訪問介護員の男女比は、男性が11.4%、女性が85.6%で、いずれも女性のほうが圧倒的に多いのが特徴です。(数値は、「令和元年度介護労働実態調査」公益法人労働安定センターによります)
私の勤務先である介護付き有料老人ホームの介護職員の男女比もほぼ同じで、女性が多い職場です。ただ、一般的には、男性が増えていると言われており、「平成21年度」の同じ調査では、介護職員の男女比は、男性が20.3%、女性が75.0%、となっており、訪問介護員の男女比は、男性が6.7%、女性が88.9%で、徐々にですが、男性の比率が増加しています。 介護の現場にかかわる職務は介護職だけでなく、看護職員、介護支援専門員、生活相談員、(訪問介護の)サービス提供責任者とあり、これらを総称して介護労働者と名付けた場合、その男女比は、令和元年度で19.1%対78.1%となります。平成21年度は、15.9%対79.0%で、男性の増加が見られます。
この半年での介護職への転職者の7割が異業種からの転職で、サービス業・主婦等からの転職が目立ったということでした(株式会社トライトによる調査)。この転職者たちが、介護経験者なのか否かはわかりませんが、やはり女性が多いように見うけられます。 コロナ禍の影響で異業種からの転職者が今後も予想されますが、介護職では女性の従事者が圧倒的に多いことは今後も変わらないだろうと思えます。
なぜ、介護職含め介護労働者に女性が多いか?の答えは、低給与であるとか、長らく女性が務めてきた仕事であるとか、いろいろ考えられますが、介護職含めたケアワーカーという職業が社会のなかであらわれてきた経緯を振り返ると、そもそもケアという分野は、女性が務めてきたという歴史的な背景が見えてきます。小川さんの文章はそこから始まります。
◆「家庭の天使」としてのケア
男女平等が一般化したようにみえる現在でも、積極的に社会的な発言をする女性、自らの欲求を前向きに肯定する女性、これらの女性たちは、ギリシア神話のメドゥーサのごとく、怪物視されます。これは、なぜかということに対して、女性は、伝統的にケアを提供する側にあったからということが指摘されます。 「無私無欲で自己犠牲的な人間を思い浮かべようとするとき、妻や母親をイメージすることが多いとすれば、それはケアを提供する人間が伝統的に女性であるからだ。」(『群像』8月号P.185以下同) この女性のポジションを「家庭の天使」と名付けたのは、英国の女性作家ヴァージニア・ウルフ。彼女は生涯この「家庭の天使」という女性に押し付けられた役割とイメージと戦い続けました。
この役割は、1960年代から70年代に起きたフェミニズム運動でも払拭はされずに残っていたと言われています。このときにそれまで以上に社会参加を実現していった女性たちですが、「男性よりも感情をうまくくくることができるとされ」る女性たちは、「男性よりも低い賃金で働かせることのできる存在として感情労働へ囲い込まれたという議論もある。」ようです。(P.186) 「感情労働」ということばは、介護職員には、馴染みのあることばです。介護職含めケアワークは、感情労働と言われているからです。「感情労働とは、職務の内容として感情が大きな位置を占め、働き手自らが適切な感情状態を保ちつつ、クライアントにある特定の感情を引き出すことが要請される労働のことを指す。」(P.186)とあります。具体的には、ケアワーク業界、コールセンター、清掃業やスーパーのレジ打ちなどです。感情を媒介にする労働なので、ストレスが大きいと言われています。介護職が感情労働の一種であることは、良い意味では、単なる介護の技術職ではなく、感情を通してケア対象者とのよい人間関係を醸成してゆくことで評価される職業といえるのではないでしょうか。
社会という大きな仕組みのなかで、女性とケアの関係をみると、女性はケアという作業において、社会的にも「社会の天使」の役割をさせられてきた/いるという社会構造が見えてきます。
◆ケアが孕んでいる可能性
女性とケアについての歴史的背景を踏まえたうえで著者は、「我々は「ケア」がすでに手垢に塗れた言葉であることを意識する。」(P.186)と、かなり厳しい指摘をします。女性が圧倒的に多い介護の現場では、シングルマザーや主婦業の女性を見ることが多く、母親や妻としての役割をこなしながら勤務する、いわば家庭と社会のふたつの場でケアの役割をもたらせている女性たちであり、彼女たちからすれば、「ケア」という言葉には、うんざりするほどの言い尽くせない複雑な感情、閉塞感、抑圧感、徒労感があると思います。
ここから、著者は、そもそもケアとは、「フランス革命期に人権を擁護する概念として広がった共感/感受性と接続する倫理であることを踏まえる」(P.186)と、今の社会のなかで弱者の位置にあるひとたちにとってエンパワメントにつながるものが<ケア>にはあるのではないかという問いを発します。
エンパワメントは、現在、医療福祉や企業、社会運動でも使われている言葉で、「個人や集団が本来持っている潜在能力を引き出し、湧き出させること」を意味し、「よりよい社会を築くために人々が協力し、自分のことは自分の意思で決定しながら生きる力を身につけていこうという考え方。」です。 また、ケアに寄せて言い換えると、エンパワメントとは、人々に夢や希望、勇気を与え、その人が本来持っている力を湧き出させることを言います。ケアにおけるエンパワメントは、ケア対象者が持つ力(生きる力や健康促進への力)をケアワーカーが湧き出させるよう援助することを言います。
小川さんの文章は、エンパワメントはケア対象者だけでなく、ケアワーカーにもあることを示唆しています。 そのなかで、小川さんが注目したのは、ヴァージニア・ウルフが「家庭の天使」という役割とイメージを押し付けられることと戦う中でたどりついた認識です。 ヴァージニア・ウルフは、「家庭の天使」という役割を押し付けられることと戦いながらも、女性の救済は、家庭の天使という役割とイメージをひとびとの<頭>から社会から消し去ることだけではないと考えていました。もっと、根源的な救済を見出していったのです。 それは、「ひとが他者の痛みを<心>で感受する力を養うことができなければ、社会の不均衡は変わらない。」からであり、そのためには、「無欲であること」と同時に「他者をケアすること」が重要であると考えていたのです。(P.187)
ケアすることとは、女性の役割として閉じ込められ利用され、性別に分けられた役割ではなく、他者の痛みを共感/感受することの価値が高められた倫理観に支えられた行為であり、「その尊い倫理観は必ずしも、男女の性別に峻別されるものではなく、両性具有性を孕んでいる。」とヴァージニア・ウルフを通じて著者は読み込んでゆきます。(P.187)
ここで、ひとつ注目したいのは、男女の性別に囚われない、新しい倫理観について、「中性的」ということばではなく、「両性具有性を孕んでいる」ということばを使用していることです。 ケアワーカーは、無機的な響きのある中性的な存在ではなく、生き物としての男女の性別を孕んだ存在であるというケアワーカーの本質にかかわることがソフトに、しかし厳しく指摘されているように思えます。ケアワーカーはドラえもんではないという当たり前のことですが、意外と見落としがちなことのように思えます。 そして、コロナ禍のなかで「市民の生命と財産を守るために働いている」エッセンシャルワーカーのひとたちが示してくれている、他人を思うことが再評価される今だからこそ、無欲に他人を思うことがジェンダーニュートラル、あるいは両性具有的な価値として捉えなおす機会が訪れているのだ。」とあり、これが、現代批評用語でいうところの<ケアの倫理>であ」り、「<ケアの倫理>がいかに女性だけでなく弱者のエンパワメントに繋がるかについて考えたい。」(P.188)と序文を結んでいます。
駆け足でたどってきた序文ですが、家庭内の女性たちの役割とされてきたケアの歴史、家庭から社会へ飛び出しても、あいも変わらぬ男性化社会の中で、社会の持続には欠かせない職業としてエッセンシャルワーカーと呼ばれながらも経済的には底辺を構成する層に押し込められている女性たちの現状を押さえつつ、ケアの中に、ジェンダー差別のない平等な社会を実現してゆく上で重要な倫理観があることを気づかされることとなりました。 このあとは、4章にわたって、<ケアの倫理>が弱者のエンパワメントに繋がるかについて、「文学研究という文脈の中で捉えなおすことの有用性について示唆できれば」(P.201)と考える著者の文章が続きます。「文学研究という文脈のなかで」ということではありますが、介護職として日々現場に立つ身としてもとても読みがいがありました。本文は実際に味わっていただくとして、序文にある問題意識と取り組みを介護職(ケアワーカー)の立場から振り返ってみたいと思います。 まず、ここまでのことばの整理をしておくと、やや強引ながら、<ケア>とは、他者の痛みや苦しみへの思いやりであり、<ケアの倫理>とは、他者との共感/感受性と接続する倫理である、と言えるのではないでしょうか。
◆<ケアワーカーの倫理>について
さて、ここから、ケアワーカー(介護職)が実際の現場で感じる<ケアの倫理>について、私の経験から思うことを起こしてみます。 介護職として<ケアの倫理>というよりは<ケアワーカーの倫理>ということになります。 <ケアワーカーの倫理>という言葉から、すぐに、思い当たるのは、夜勤でナースコールが鳴り、ひとりで利用者さんの居室へ向かい、扉を開けて暗闇の奥に人の気配を感じるときです。暗い湖面に小さな小舟が揺らいでおり、そこに人の気配があるとでもいった感じです。 変な表現ですが、そこには、逃げ場はありません。何かあれば、昼間ならば誰か呼べます。昼間ならば、私より先にその居室へ既に到着している介護がいるかもしれません。深夜は、私の前にも横にも介護は誰一人いません。私ひとりでこれから起こることにあたらなければならないわけです。そして、これから起こることとは、ナースコールを鳴らした本人、暗い湖面の小舟で私の到着をじっと待っていた利用者さんとのやりとりから始まります。
<ケアワーカーの倫理>というものがあるとすれば、このときに私のなかを過ってゆく何かだと思います。あるいは、このときに、灯りの消えた居室へ一歩踏み出させられる何かのような気がします。勇気や義務と言っては格好良すぎですし、火事があれば建物に入ってゆく消防士のような職業意識、使命感でしょうか。できれば、この緊張感とその後に起こるかもしれないとんでもない事態を避けたいのですが、そうもゆかず、身を引き締めて覚悟して、感受性を開いて一歩踏み入ることとなります。 前回『野生の介護』で紹介した著者の三好春樹氏は、この場面を利用者さんから見た場合に、あなた(介護職)は、利用者さんにとって世界となっているのですといった言い方をなさっています。利用者さんからすれば、介護職は、暗闇でのひとりぼっちからコールして、やっと現れた存在であり、そのときにはそれは世界のすべてといってもよい存在になっている、ということです。 三好春樹氏も、深夜夜勤のナースコールでの訪室のこの場面に、介護職の倫理があると言われており、同感でした。 利用者さんが体調が悪いと言えば、血圧、体温、血中濃度、などのバイタルを測定したり、看護師を起こしに行き、これからの指示を仰がねばなりません。もし、緊急搬送で救急車を呼んで病院にゆくことになれば、夜勤者がひとり付き添い、残った夜勤者に回される仕事の算段もあります。そういうことが、毎回一瞬のうちに頭の中を過ります。
また、利用者さんから人生相談?をされることもあります。 あるとき、100歳を越える女性の利用者さんからのナースコールがあり、年齢からの衰弱で自力歩行は不可で、寝ぼけて自分で歩けると思って転倒することもあるので、あわてて駆けつけました。 「わたしね、目が覚めていろいろ考えていたら、眠れなくなっちゃって。」 「真夜中ですから、いろんなことは明日にして眠った方が良いんですが、どうですか。」 「どうしても気になるんだけど。最近ね、女学校時代からのとても親しいお友だちが三人とも訪ねてこないのよ。それでね、やはり、わたしも性格がわるいところがあるから、ばれちゃったのじゃないかって、かんがえていたら、眠れなくなったのよ。」 「え〜、性格が悪かったですンかぁ」 「そうなのよね、ふっふ(笑い)。あら、お兄さんにもわたしの性格の悪いことを告白しちゃったわ。」 昭和の初めころに一緒にテニスをしていたとても親しい友だちが訪ねてこないと言われて理由は察しは尽きます。そもそも彼女が入所してから友人はだれもいらしたことがありません。しかし、察した内容をそのままはさすがに言えません。言ったところで、肯定と否定の堂々巡りになります。 そのときは、他のナースコールも少し途絶えた時間帯だったので、お友だちたちとの楽しい思い出をお聴きし、朝が来たら、皆さんに連絡してみましょうということになりました。 翌朝、彼女はこのことはすっかり忘れてました。
真夜中にナースコールがあった。利用者さんへ駆けつけた。何か利用者さんにとって問題があった。その場で解決することが最優先ですが、問題に対する対応はさまざまです。利用者さんの状態にもよりますし、介護職の状態にもよります。両者の状態からでてくる人間関係の成果がそこに現れるのだと思います。 この100歳の女性の例は、利用者さんがそのときに乗っていた小舟にうまく乗りこめて、話し合いをして、共同決定を行い、お互いに安心したという成功例です。 覚悟して扉を開けて、暗い湖面にゆらゆら浮かぶ小舟にそっと乗り込んで揺れを鎮めて、出てゆく。この一連の行為をケアとすれば、このケアという行為を支えているのは、感受性のアンテナでとらえた共感であり、それらを私のなかで起動させているのはひととして孕んできた倫理観だと思います。
今のところ、<ケアの倫理>から私がケーワーカーのひとつである介護職の仕事につなげられるのはここまでです。この倫理は、両性具有的であることを小川さんの論文から学び、介護職は、性別による差異化が、社会構造の変化や利用者さんとのよい関係づくりのなかで解決されるようになったとしても、ロボットとしてのドラえもんではないだろうと思いたいです。 今夜も、また、利用者さんの小舟にそっと乗らせてもらうような勇気を<ケア(ワーカー)の倫理>から貰いたいと願ってます。 なぜならば、「希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。」と、港湾労働者で沖仲士を生涯続けながら思索を深めたエリック・ホッファーの自伝にあるからです。 数多の介護職(ケア・ワーカー)が自分の仕事に理想や希望を抱き、そして損なわれ、職場を去ってゆきました。今、介護職に必要なことは、現場に向かう勇気の質を高めてゆくことである気がしています。
参考文献 *小川公代『“ケアの倫理”とエンパワメント』 群像2020年8月号(講談社) *ヴァージニア・ウルフ『病気になるということ』 早川書房HP https://www.hayakawabooks.com/n/nfb43f5f3b177 *三好春樹『関係障害論』(雲母書房) *エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(作品社)
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