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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年02月18日12時09分掲載
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アジア
ミャンマーの民には義理がある! 日本軍兵士たちが戦場で見た「もうひとつのビルマ」
ミャンマー国軍のルーツと『ビルマの竪琴』幻想にふれた拙文にたいして、いくつかの感想をいただいた。「『ビルマの竪琴』の欺瞞性は初めて知ることです。戦後日本の平和はこうした欺瞞に満ちていることを改めて感じました」もその一つである。では、作家による虚構の世界ではなく、じっさいに過酷なビルマ戦線を生きのびた日本軍兵士たちは、戦場で何を見、日本が戦火に引きずり込んだビルマの人びとをどのように思っていたのだろうか。二人の元日本兵の体験記は、ふつうの民が示してくれた優しさに戦後も深い恩義を感じ、それに私たちがどう報いたらよいのかを考えようとしている。ビルマの民のこころ根は、いま軍政に立ち向かうミャンマー市民にうけつがれているように思われる。(永井浩)
▽『ビルマの竪琴』の創作過程 体験記の紹介のまえに、『ビルマの竪琴』について若干つけくわえておきたいことがある。作者の竹山道雄は、戦場で斃れた日本軍兵士たちの鎮魂と平和国家の再建という想いを作品化するにあたって、なぜビルマでないビルマを舞台にしたのかという疑問である。 竹山はドイツ文学者で、この作品の執筆当時は第一高等学校(現・東京大学教養学部)教授だった。その彼が、畑ちがいの分野に挑戦するにいたった動機は、当時の日本の風潮への反発だという。1985年にしるされた「ビルマの竪琴ができるまで」で、彼はこう回顧している。「戦死した人の冥福を祈るような気持ちは、新聞や雑誌にさっぱりでませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、「戦った人はたれもかれも一律に悪人である」といった調子でした」。日本軍のことは悪口を言うのが流行で、正義派とされた。だがそれには承服できない竹山は、「あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとでは別なこと」と言い切る。彼の周辺にも、「屍を異国にさらし、絶海に沈めた」若い人たちがたくさんいた。
だがここで、竹山は難問に直面する。「私はビルマに行ったことがありません。いままでこの国には関心も知識もなく、敗戦の模様などは何も報ぜられなかったのですから、様子はすこしも分かりません」。彼が参考にしたのは、電車のなかで客が読んでいた『月刊読売』のビルマ戦線の記事だった。ビルマ全土に日本兵の白骨が累々と野ざらしになっていると報じられていた。ビルマの風土や風俗については、図書館で『世界地理風俗体系』を読み、古本屋でビルマの写真帳を手に入れ、さらに学生時代に旅行した台湾の「蛮人部落」の記憶をたよりに熱帯色ゆたかなビルマへの想像力をふくらませた。 このように、「『ビルマの竪琴』の「ビルマ」は、熟慮と周到な準備をへて選ばれた舞台ではなく、作品の中心的なイメージのひとつ(「歌う部隊」)が作者に否応なく選ばせた場所であった」(正木恒夫『植民地幻想』)。
作品は、毎日出版文化賞や文部大臣賞など数々の賞を受けた。前者の受賞理由は、「児童文学の質と地位を高めた異色ある作品」で、「国境を越えた人類愛をうたい、ビルマの風俗なども面白く描かれている」とされる。新潮文庫のカバーには、「戦場に流れる兵隊たちの歌声に、国境を越えた人類愛の願いを込めた本書は、戦後の荒廃した人々の心の糧となった」とある。日活の映画作品の広告には、「美しい竪琴の音に理想と祈りをこめて全世界に訴える人類愛の歌ごえ!!」という謳い文句がおどっている。原作、映画とも、多くの日本人に大きな感動をあたえた。 だが日本軍が戦争で「ビルマ人にひどい迷惑をかけた」とは書かかれているが、ではなぜ日本はビルマに攻め入ったのか、どのような迷惑をかけたのかについてはふれていない。 しかもすでにふれたように、僧侶が竪琴を奏でることは戒律のきびしい上座仏教ではありえない行為であり、即破戒僧として仏門から追放されるであろう。こうした一国の基本文化の歪曲だけでなく、この国には存在しない人食いや首狩りの「蛮族」まで登場する。主人公の水島上等兵は人食い人種に救われ、手厚いもてなしを受け、「未開な人とはいっても、何と気立てのいいやさしい人たちだろう」と感心する。
このような創作過程をしって生じる疑問は、竹山は彼の専門であるドイツはもちろん欧米世界を舞台とする作品を書くときに、おなじような手抜きをするだろうか、である。もちろんしないであろう。だがアジアなら、安直な資料集めでよしとしたのであろう。またアジアに無知な読者や賞をあたえる識者らも、作品のなかのウソを見抜けず、感動してしまった。 いや、当時の日本のアジア理解はこのていどだったのだから仕方ないという見方も成り立つかもしれない。だとするなら、日本は東南アジアについてほとんど正確な知識をもちあわせていないにもかかわらず、「白人支配からのアジアの解放」という旗印をかかげて「聖戦」に突入したことになる。勝利がおぼつかないのは当然である。 そしてアジアに対するこうした私たちの姿勢は、現在のミャンマー情勢をどう理解するかということとも関係してくるだろう。この点についてはすでに、アウンサンスーチーの表記をめぐって書いたが、のちほどあらためて考えてみるとして、まずは架空の物語としてのビルマではなく、実際の戦場にいた日本兵たちは戦争とビルマの人びとをどのように見ていたのかを、彼らの体験記で確認してみよう。
▽『アーロン収容所』 『ビルマの竪琴』のような文学作品ではないが、ビルマ戦線体験記ともいうべき戦記がたくさん出版されている。大東亜戦争全体が無惨な戦いの連続だったが、なかでもインパール作戦は、ガダルカナル戦、ニューギニア戦とならぶ凄惨な戦場で、日本兵のあいだでは「ジャワの極楽、地獄のビルマ、死んでも帰れぬニューギニア」と唄われていた。戦記のほとんどはマスコミでおおきく取りあげられることはなかったものの、九死に一生をえた元日本兵たちのなかには、戦後もみずからが青春をささげた戦争の意味を問いつづける人たちがいた。 それらの体験記のなかでベストセラーになったのが、会田雄次の『アーロン収容所』(中公新書)である。 会田は1938年に京都大学史学科を卒業した西洋史研究学徒だったが、43年夏、教育招集によって京都の歩兵連隊に入隊、ビルマに送られた。彼が擲弾筒手として配属された部隊は英軍に追いつめられ、南部のシッタン河の河口で全滅寸前となった。そのとき、終戦を知った。その直後から47年までの1年9ヶ月間、英軍捕虜としてラングーン(ヤンゴン)のアーロン収容所ではげしい強制労働に服せられた。その体験を62年にまとめたのが、本書である。出版当時、会田はルネサンス史専攻の京都大学人文科学研究所助教授だった。
捕虜生活をおえて帰還した日本では、英国に対する讃嘆が渦を巻いていた。近代化の模範生、民主主義の典型、言論の自由の王国、大人の国、ヒューマニズムの源流国等々。その賞賛のすべてが嘘だというのではない。そのくらいのことは戦前でも、会田たちは知っていた。またこれらの長所とともに、その暗黒面も知っていた。 だが、その裏と表を合わせても正しい見方になるのではない。「その中核を形づくっている本体を見てこなかったのではないだろうか」と彼はかんがえる。これまでの英国に対するすべての見方を根本的にやり直すための示唆をあたえてくれたのが、英軍の捕虜生活だったという。そこで筆を執ったのが本書である。
日本軍捕虜たちは英軍の女性兵士の部屋の掃除もさせられた。 ある日、会田は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知ると、そのまま何事もなかったかのようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には2,3人の女がいて、寝台に横になりながら米国のグラフ誌『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。彼はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終えると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。こうした経験は彼だけでなく、他の日本兵捕虜もした。 入ってきたのがもし白人だったら、女たちは金切り声をあげて大変な騒ぎになったと思われる。じじつ、彼女たちは英国兵にははにかんだり、ニコニコしたりとむやみに愛嬌がよい。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである。 「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要なないのだ。どうしてもそうとしか思えない」 食糧品集積所に入ったビルマ人の泥棒たちが多数、英兵の自動小銃によって殺された。それを急いで報告にいった会田に、英兵小隊長は「フィニッシュ」とつぶやいただけだった。ネズミ一匹の死としか見ないような、冷静で事務的な態度だった。 「ヨーロッパ人がヒューマニストであるなら、いったいこれはどういうことなのであろうか」 捕虜たちは英兵から肉体的暴力をふるわれることはなかったが、「一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような」、日本の軍隊とは別の残虐さを会田は感じた。
元日本兵会田は捕虜体験から、知られざる英軍の、そしてイギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったとしてこう書く。 「この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか」
▽日本兵を絶望から救ったビルマ人兵補 では日本兵は、こうした欧米にみならいながら日本が蔑視してきたビルマ人をどう見ていたのか。 会田の部隊には、モングイというビルマ人兵補の若い青年がいた。ほかの兵補は死んだり、逃亡したが、彼だけは幽鬼のような日本敗残部隊に最後まで忠実に仕えてくれた。 終戦とともにモングイの処遇が問題となった。ここで彼を自由にしてやらなければならない。そこで心ばかりの別れの小宴をひらき、役には立たないかもしれないが、軍票や石鹸やタオルなど、各自おのおのしまっておいたもののなかから餞別をおくり、日本軍が負けたこと、一緒に英軍の捕虜になるわけにはゆかないなどと話した。 それに対してモングイは、たどたどしい日本語とビルマ語で大意こう話した。 「マスターたちは負けた。残念だろうが、これも運命なのだ。気を落とすことはない。昔はビルマも強国だった。そこへイングリ(イギリス人)が来て、ビルマ人をみんなおいはらい、長い間いばっていた。それを日本人がイラワジ河へたたき落としてしまった。しかし、その日本も今度はまたイングリが追いはらったのだ。すべては流転する。このイングリもやがて消えるか、イラワジ河に落ちてしまうだろう。ごらんなさい、このシッタン河を。日本軍が勝っても英軍が勝っても、同じように変わらず、ゆっくりと渦を巻いて流れている。人間のやることはどんなことでも、時と運命によって幻のように消えくずれてしまう。自然は変わらない。イラワジ河はもっともっと大きい。この河はすべての人間の栄枯盛衰をのみつくして永遠に流れてゆくでしょう。ビルマも昔のままの姿で残ります。それが仏陀の知恵なのです。私たちはこの仏陀とともに生きているのです」
日本兵は茫然とした。会田らはこのよく働くビルマ人を、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えてこなかった。「しかしこの愚直そのもののような青年の口からいまもれているのは、もっとも適切な瞬間における諸行無常と諦観の教えなのである」 完全に絶望的な、まったく坐して死を待つといった戦闘の継続で兵隊たちはすでに何の希望も持っていなかった。とにかく生きてはいるものの前途は真っ暗であった。終戦によって、生命だけは助かるかもしれないと思われだしたが、英軍はどうでるか、日本へ帰れるのか、帰ってもこのビルマのように廃墟である。生命だけ助かっても、何もなければ一体どうなるんだという虚無感と不安が大きくのしかかってくる。 このようなとき、おなじような絶望をもっているはずのモングイのこの教えは、会田たちをまことに元気づけるものとして作用した。「自分たちの立場が特殊な際立った暗いものではなく、人類のすべてが経験し、あるいは諦観したり、あるいは反抗しながら耐えてきたものなのだ。広い広い立場からすれば、ごく一般的なあたりまえの運命でしかなかったことを悟らせてくれたのである」
なぜビルマでは小乗仏教(上座部仏教)の精神が生きており、日本の大乗仏教がまったく形骸化しているのか。その理由はわからないが、会田にはっきりわかったのは以下のような事実である。 「ビルマの仏教は、ただこの国が僧侶の天下であり僧侶もまた真面目であるということだけでなく、その精神が一般の人びとのなかにこのように生きているということである。しかも私が痛感したのは、戦後におけるビルマ人の日本捕虜への好意が終戦前と性質がかわったことである。戦争中は強者への憧れがあった。戦後はそれがなくなり、自分たちとおなじ苦しみを持つものとして共感と同情に変わったような気がする。モングイに見られるような仏教の精神が本当に広く一般にしみこんでいるとすると、あとでいろいろ述べるビルマ人の行為は、この精神と関係があるように思える」
収容所のきびしい規制がややゆるむと、捕虜たちはラングーン市内へも短時間出られるようになった。捕虜たちはよく町の下水や糞尿の処理をさせられたが、ビルマ人の好意は不思議なほどであった。 ある家の裏で清掃しているときだった。しばらくして、4歳ぐらいの可愛い女の子が出てきた。花飾りを頭にさした少女は7、8人の日本兵作業員のまえで日本の軍歌「見よ東海の空あけて」をかなりきれいな日本語で歌いながら踊りだした。母親がお礼か慰めのつもりで踊らせたらしい。会田はジーンと目がしらがあつくなってきた。 「戦争中私たちはビルマ人にずいぶん迷惑をかけ、掠奪などひどいこともした。しかし、このラングーンではどこへ行っても危険を感じることはもちろん、不愉快な思いをすることもなかった。直接ひどい目にあわされた一部の人は日本軍を憎んでいたらしいが、ビルマの対日感情のよさは、戦争のはじまる頃と変わらないようであった」
命からがら敗走する日本兵にたいして、多くのビルマ人が精神的な支援だけでなく、物質的な助けもしてくれた。貧しい生活のなかから、米や塩を分け与えてくれたのである。その体験から、戦後ビルマが大好きになった元日本兵は少なくなかった。「ビルメロ」ということばも生まれた。ビルマのこととなるとメロメロになるのだ。 彼らの中から、1988年の民主化運動が軍に弾圧されたあと、闘いに参加したため軍による逮捕を逃れて日本にやってきた多くのミャンマーの若者たちの生活を支援しようと立ち上がる人たちも出てきた。絶望的な敗走のなかで、この若者たちの親、兄弟姉妹たちがほどこしてくれた恩義になんとか報いたいという気持ちからだった。
また、ビルマ人の精神的な豊かさが戦後もそのまま息づいていることを発見し、戦後日本の経済的繁栄と平和とは何かと問い直そうとする元日本兵もいた。それを記した元日本兵の体験記を、つぎに読んでみよう。
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