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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年02月21日12時19分掲載
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アジア
「軍政国家の代表はいやだ!」ミャンマーのサッカー選手、W杯アジア予選の対日試合を拒否 宇崎真
クーデター後、ミャンマーのサッカー界にも反軍民主化の波が押し寄せている。W杯のアジア予選に臨むべき代表選手のなかから「クーデターを起こした軍政下の国の代表にはなりたくない」との声があがり、ゴールキーパーはじめ数名の選手が試合出場を拒否している。CDM (Civil Disobedience Movement 市民不服従運動) は全国的に拡大、サッカーのファンと選手を巻き込んでいる。
▽軍政はサッカービジネスにも執心 サッカーの世界ではまず欧州プレミアリーグのファンが立ち上がった。彼らは熱狂的なManU(英国マンチェスターユナイテッド)とかレアル・マドリード、FCバルセロナの応援でテレビ中継に釘付けとなっていたひとびとだ。次いでミャンマー国内プレミアリーグのファンが呼応した。そして代表選手らも声をあげ始めた。対日本代表との試合の延期はこうした動きがひろがった結果である。
プロのサッカーチームは現在1部リーグ12チーム、2部リーグ8チームが組織されている。プロリーグ結成は2007〜8年にミャンマーサッカー連盟会長のゾーゾーらのイニシアティブで実現し、実際のリーグ戦は2009年5月に開始された。それはまさに反軍民主運動が盛り上がり大弾圧を受けた時期と重なる。川淵三郎会長(1982〜88)、犬養基昭会長(1988〜90)のもと、日本サッカー協会は「チョーディンという日本サッカー近代化の父への恩返し」として援助、協力を惜しまなかった。中田英寿もヤンゴンを訪れコーチになり、親善試合に選手として出場したりした。
ミャンマー(以前はビルマ)のサッカーの歴史は古い。サッカー協会設立は1947年、アウンサン将軍暗殺の年である。当時のビルマサッカーの水準はイギリス、特にスコットランドサッカーの影響を継承していて結構高く、1954年日本代表の遠征チーム(竹腰重丸監督)と対戦したアマチュアチームが互角の試合をしている。計5試合で2勝2敗1分けであった。 だが、1962年から26年間にわたる軍事独裁下の「鎖国政策」は、豊かだった経済を疲弊させミャンマーは「最貧国」に陥ってしまいサッカー水準も低下した。
88年に民主化運動が全国的盛り上がりを見せたとき、ゾーゾー(当時21歳)もそのデモのなかにいた。軍による運動弾圧後、彼は日本に逃れ銀座で皿洗いをしていた。だが、軍政からの呼びかけで帰国。この「転向」は在日ビルマ人からは非難、軍部からは大歓迎をもって迎えられた。 日本からの中古車輸入ビジネスを許可され、ゾーゾーの蓄財が開始される。軍内序列2位のマウンエイ将軍と接近、更に独裁者タンシュエの溺愛する孫息子の誕生日に一千名の招待費用を全額負担、そこからタンシュエ・ファミリーとのコネを築いたという。銀行、建設、観光、天然ガス、ゴムプランテーション等で大富豪(マックスグループ企業群総帥)になりあがっていく。 軍人には真似のできぬ目先利きと素早い転身で、今度は2015年総選挙でNLD優勢をみるやアウンサンスーチーに接近する。「米国の経済制裁のブラックリストからはずしてもらうにはNLD寄りの姿勢を示すのが一番」と判断したようだ。それは奏功し、翌16年アウンサンスーチー政権の誕生で7年に亘る制裁から脱出する。NLDへの資金援助、医療施設建設はじめ各種の社会慈善事業も展開し、繰り返しアウンサンスーチー国家顧問とも懇談する姿はメディアで紹介されるようになった。
ミャンマーサッカー界のもう一人の大物はテイザー(トゥーグループ企業群総帥)だろう。彼は父親が軍人で軍部とのコネはもとより強い。88年の民主運動にも不参加、当時24歳だった。タンシュエとの密接な関係でまずチーク材ビジネス、建設業、観光業、インフラ事業でミャンマー有数の財界人となる。エアーバガンを設立し航空界に旋風を巻き起こした。だが飛行機事故を起こし整備不良の実態が明るみに出てこの分野からは結局撤退。それを除けば意のままにふるまってきたクローニー資本家である。2010年民政移管の方向性が明確になり企業の民営化が大々的に進む。膨大な利権が発生する。民間の銀行設立もテイザーが一番に認可をうけている。テイザーも2016年10月に米国の制裁を解除されている。 そのテイザーは、やはりサッカープロリーグ結成に「ヤンゴンユナイテッドFC」を率いて積極参加した。結成時は8チームだが、そのいずれもオーナーは軍政時代に肥え太ったクローニーらのオンパレードと言えた。ミャンマーの財力をにぎる実力者らはことにサッカービジネスへの執念がつよいようだ。タンシュエ軍総司令官が「英国プレミアリーグのチーム買収に動くか」という噂が一時出たが、それもあながち単純なデマともいえない。
▽クーデター後のサッカー界富豪の動向 ゾーゾーはサッカー連盟会長、テイザーはヤンゴンユナイテッドのオーナー。ともに二十代前半で88を見て対照的な道を歩み、やがては軍部とのコネを最大限活用し巨富を築き、そしてサッカー界で再合流した。この二人に今回のクーデターはどのような進路をとらせるのだろうか。
ミャンマーのローカル紙「イラワディ」は2月15日に、「アウンサンスーチーに近かった大物実業家を軍部が尋問」という記事を載せた。それによれば、ゾーゾー(Zaw Zaw)、チットカイン(Chit Khaing)、マウンウエイ(Maung Weik)が軍部に呼び出され一時拘束、尋問がおこなわれた。ゾーゾーについては三回尋問され、それ以降存在は目立たなくなっていると報じている。 一方のテイザーの動きは表に出てこない。クーデターを中国は非難も支持もしておらず「ミャンマー国内の二分対立は望んでいない」と表明、このところ出動しはじめた装甲車はロシア製だという。思い当たるのは、テイザーはロシアとの武器輸入のプローカーでもあったという情報である。サッカー連盟会長はクーデター後に低姿勢、一方膨大なサッカーファンから軍政反対の声が高まり、代表選手は試合をボイコットしている。まさにミャンマーサッカーの世界も大きく揺れているのである。
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「クーデターを拒否」するサッカーファン(ファンのフェイスブックより)
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