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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年02月21日12時55分掲載
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アジア
民主化に託すミャンマー国民の「豊かな」暮らしとは? ビルマで日本の経済繁栄を自問した元日本兵
軍政に反対するミャンマー国民の民主化運動は、国軍のクーデターから3週間たち全土で拡大しつづけている。人びとは民主主義と人権がふたたび奪われ、日々の暮らしが悪化するのを恐れている。だが彼らがもとめている安定した生活とは、たんなる物質的な豊かさだけではなく、もう少し深い意味での豊かさを保障するものなのではないだろうか。ビルマ戦線を生きのびた元日本兵、中島正舒の『ビルマ鎮魂歌』は、そのことをうかがわせる。著者はあわせて、戦後日本の経済的繁栄と平和とは何なのかを問い直そうとしている。(永井浩)
▽「彼等は日本人をゆるしてくれた」 中島の家系は多くの軍人を輩出してきた名門で、彼が生まれた1918年(大正7年)父は日本のシベリア派遣軍の参謀長として出征中だった。父はのちに近衛師団長に昇進、陸軍最高峰の道を進む。中島は41年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業するが、学友たちの人生の道はそのまま軍隊の門につうじていた。多くは海軍の予備士官や陸軍の主計将校の道を選んだ。中島は将校になる気はなく、一兵卒として東北、北関東出身者で編成された砲兵連隊に入隊するが、まもなくして軍人の息子が将校の道を忌避するとは何事だ、と叱責され、千葉県習志野の野砲兵予備士官学校に入隊した。42年にビルマ戦線の砲兵連隊の小隊長に任命され、インパール作戦で多くの部下を失い、自分は生き残った。戦後の46年に帰国後は、日本の再建に努力し、北海道東北開発公庫副総裁、石狩開発株式会社取締役会長などを歴任した。 この本は、戦没者巡礼団の一員として戦後30年ぶりにビルマを再訪したときの見聞を記したもので、1979年に出た。元日本兵は自分が青春をささげた戦争の意味を自問自答し、折々に詠んだ歌をはさんでいるが、その多くは、若き砲兵小隊長の部下の兵士たちを自分たちの名誉欲と権勢欲だけで無意味な死に追いやっていった上級将校たちの無定見、無責任な戦争指導に対する怒りをあらわにしている。
夜襲成功の吊星は前夜あがれども生存の兵の一兵もなく ひた心もて有為なる若きらは無謀の突撃に日々へりて行く みずからの功のみあせる髭将軍全滅期せとこともなげに命ず 人間の修羅の愚かさ嘲笑(わらう)ごとチーク林にトッケーの鳴く 幽鬼のごと裸はだしの敗走の兵ら落ち行くアラカンの雨季 谷深く自決の銃声こだまする白骨街道に雨降りやまず 路のべに斃れし兵に蛆(うじ)たかり父母には語るべからず
中島のビルマ再訪は、インパール戦線で生死をともした弓兵団の元兵士ら30人ほどと日本の僧侶がいっしょだった。一行はいくつかの戦跡で、南国の灼熱の太陽の下に眠る亡き戦友の霊に僧侶の読経と花、日本から持参した酒をささげた。僧院のひとつでは、ビルマ僧もまじえて回向をおこなった。 戦争の残した傷跡にも出会った。ニャンウでは日本人とよく似た若いビルマ人たちに会った。聞けば父親は日本の兵隊だったという。父の顔もしらなければその後の消息も知れぬまま苦難の日々をどうすごしてきたかと思うと、中島のこころは痛んだ。タウンジーには旧日本軍の慰安所(公設娼家)だった建物が雑貨店として残っていた。 中島は、日本軍がビルマで何をしたのかを記憶にとどめている。また今回の再訪で、戦争中はまだ少女だった女性たちとも再会し、彼女たちが昼夜を分かたぬ激しい空襲下で日本軍の兵器廠で働いていたころの苦労話やビルマ人が日本軍をどのように見ていたかなどを聞かされた。
日本軍がビルマに侵攻してきたとき、日本軍をビルマ解放の軍隊とおもって歓迎した村人が多かった。彼らは食糧や水をもって日本兵たちを出迎えた。ところが、夕方には浮かぬ顔で村に帰ってきた。日本の兵隊は歓迎者を横柄ににらみつけ、食糧などを早くよこせとひったくろうとした。びっくりして立ちすくんでいると、いきなり頬にビンタが飛んできた。頭や顔はビルマ人にとってもっとも大切なところで、そこを叩かれるのは恥辱以上のものだった。敬虔な仏教徒であるビルマ人たちが僧院で床にひざまづき、仏像に頬をすりつけるようにして拝んでいるのを無視して、日本兵たちは僧院のなかにまで靴のまま上がりこんできた。暴行、略奪もあった。日本兵のふるまいは口コミでまたたくまにビルマ全土にひろがり、抗日のうごきとなっていったという。 それでも、ほとんどのビルマ人たちは旅行中の中島たちに悪感情のかけらもしめさなかった。兵器廠で苦労した女性たちは、ビルマ名物の麺料理モヒンガーや果物、たばこなどをもってきて、にこやかに歓待してくれた。その笑顔は、絶望的な戦況のなかにいた中島たち日本兵のこころを片言の日本語で日夜なぐさめてくれた、30年まえのビルマ人のやさしさと変わりなかった。中島は胸があつくなるのをおぼえた。 「彼等は日本人を赦(ゆる)し、好意を示してくれた底知れぬ善意の人々であった」
古都マンダレーで朝早く目ざめ、澄みわたった青空の下の王城のあたりを散歩すると、あまたの僧の托鉢に出会う。素足に橙色の僧衣を両肩にまとい鉢をかかえて、2メートルほど先に落とした視線を動かさず黙々と歩いている。視線を先に落とすのは、蟻などの生き物を踏み殺さないためといわれる。中島が30年まえにみたままの光景である。家ごとに奥さんや娘さんが炊きたての飯をもって敬虔な態度で差し出すと、僧はけっして礼など言わず黙然と受け取る。恵みを受けているのは僧ではなく、在家の人びとの方なのである。供養させることによって在家の功徳を積ませているということなのである。
▽「戦死せる友が祈った日本とはこのような姿か」 中島は、東南アジアとは日本にとって、日本人にとって何なのであろうかと思いをめぐらす。「大東亜戦争が始まるまで東南アジアについて、日本人のうち果たしてどれほどの人が、どれほどの事を知っていたであろうか。戦争を企図したその軍部自体にさえさしたる知識がなく、南洋の地誌すらなく開戦直前に泥縄式に南方研究班をでっちあげたような事情であったから、おしてしるべきであろう」。当時はまだ東南アジアという呼称はなく、この地域は「南洋」という大ざっぱな呼び方をされていた。そこに住む人びとは「南洋の土人」という侮蔑的な表現でひとくくりにされ、その文化や生活の実態などほとんど知られていなかった。そこに突然日本軍が雪崩をうって侵入してきた。「そしてアジアの解放戦争と主張し、君らの為といっても信用されなかったのは無理ないといえよう」。 日本が真に彼らの解放のため軍隊としてその正当性を主張し、彼らによって正しく受け入れられるためには、それらの地域のナショナリズムを支援した実績がなければならなかったはずである。「心情的な支持はあったかもしれないし、一部には支持した人々もあったようであるが、彼等は日本の政治のアウトサイダーであった人々であり、公式には日本はその独立運動の傍観者に過ぎなかった。抑々(そもそも)民族自決の原則に立ち、独立運動を助けることは朝鮮と台湾を植民地として持っている日本としては出来ぬことであった」。 そして解放軍として進駐した日本軍が占領下でおこなった政治はいかなるものであったか。「仮(たと)え戦争という特殊な環境下にあったとはいえ、アジア諸民族の独立、自立を助ける方向とは余りにもかけ離れたものであったことは認めねばなるまい」。たしかに日本軍の英軍撃退は、アジアの人びとの民族的自覚に火をつけた面があった。「日本人が白人を追ったことは有色人種の劣等感を払拭したが、同時に日本人は彼等にとって最後のそして最も破壊的な帝国主義者と映ったのではなかろうか」
このように自問する元日本軍砲兵隊長は、戦後30年をへてアジアとの経済的な関係が深まりつつある現状に懸念をかくさない。戦争中の日本の流儀が「経済協力、開発援助の時代にあっても自ら知らぬ中に繰返されているのではないか」と。「そもそも日本人一般の東南アジア観がそれほど変わっているであろうか」。東南アジアの人びとを自分たちより低いと見る態度や、利己的で物だけに執着する厚顔無恥さ、大国意識丸出しで利潤先行の行動、そして東南アジアから利益を引き出しながらたえず本国と西側諸国にむけられている目。これでは、東南アジアの人びとから「軍服から背広に変えた日本人の侵寇と思われてもやむを得ないのではあるまいか」
それとともに中島は、戦後日本の復興と経済発展とは何なのかと問う。 生きて祖国に帰れたのはまったくの偶然としかいえない彼の世代は、戦死した人びとへの負い目というものから解き放たれないできた。「祖国の栄光と幸せを祈って戦死していった友に何をもって報いることができるか」をかんがえつづけながら、戦後を生きてきた。「なるほど日本はたしかに復興したといえるだろう。平和と繁栄の日を実現したともいえるだろう。しかし此の黄金の日の日本が、果たして幸せであるのか、何かとんでもなく大切な心を見失ってしまったのではあるまいか」。ビルマ鎮魂の旅は、彼にこのおもいをあらためて痛感させた。 当時のビルマでは、ネーウイン政権の「ビルマ式社会主義」の失敗がだれの目にもはっきりわかるようになっていた。ネーウインは、アウンサンらとともに日本軍の支援をえてビルマ独立義勇軍の結成にくわわった「30人の志士」のひとりだったが、1962年にクーデターで実権をにぎると軍人を頂点とする独裁体制を築いた。貧困は解消されず、失業者があふれ、政権に反対する学生らは徹底的に弾圧された。それでも、パゴダの境内のなかのひんやりした石床の上で一家そろって楽しく弁当を食べ、談笑をしているビルマ人たちの楽しげでみちたりた表情が、日本からの巡礼者には印象的だった。そのかたわらでは、老若男女が瞑想にふけり、合掌をつづけている。 人びとは、かつての侵略者に対してもホスピタリティに厚く、礼儀正しく、親切なもてなしをしてくれる柔らかい心をもちつづけている。
颯爽と腰に輝くグルメット若き士官の恋におちし地 ポインセチア咲くかの女(ひと)の庭に立ちその名を問へど知る人 もなく ふりかえる乙女のえまい消えゆきて三十年(みそとせ)の夢また消ゆるごと ロンジーの絹ずれやがて消へ行きぬ旅の終わりの夜のしじまに
旅の終わりに中島は、はるか日本の現状におもいをはせ、「かれら戦死せる友が祈った日本とはこのような姿であったのか、痛ましき思いは尚うづきつづける」と記し、こうむすぶ。 「豊かになり乍(ながら)常時不足、欠乏の欲求不満状態にある日本人に比べ、ものは持たないが、自然が与える生活の最小限に充足して安息している心、その物の所有に毒されていない心が私の胸を打つのであり、現在の日本人が失ってしまった節度と思いやりを伴った心が何と人間の価値ある宝であるかを思い知らされると共に、如何にして日本人が彼等とかかわりあってよいのかについてさまざまに考えさせられるのであった」
私は『ビルマ鎮魂歌』を、東京・神田神保町の古本屋の、戦記物が並ぶ棚の一角で見つけた。『ビルマの竪琴』のように多くの読者をつかむ文学作品は書かぬとも、戦場で日本のために勇敢に戦い、敗戦の意味を深くアジアとの関係のなかで考え、戦後日本の歩むべき道を真剣に問うた日本人がいたという事実は、私を感動させた。そしてミャンマーの民主化運動のたかまりを追いながら、すでに黄ばんだページをあらためて繰っている。
▽民主化デモと瞑想 民主化デモの光景をつたえるテレビや新聞には登場しないが、「軍政打倒!」の叫び声の渦と群衆の隊列からすこし離れた、最大都市ヤンゴンのシンボルである金色のシュエダゴン・パゴダはじめ全国の寺院で、きょうも多くの老若男女が両手を合わせて瞑想にふけっているはずである。 人びとが解放を要求するアウンサンスーチーも、自宅軟禁のあいだ瞑想を実践しつづけた、と『ビルマからの手紙』に記している。「私は、日々の瞑想の実践がいかにして日々の生活における目覚めた心の増進につながるかを悟った」 彼女はまた、最初の自宅軟禁から解放されて自由の身となり、最初にヤンゴンの外に足をのばした先であるカレン州のターマニャ寺院で、尊敬するウー・ウィナヤ師に教えをこうたときの対話も記している。 僧正がまっさきに尋ねたのは、豊かになりたくて訪ねてきたのかという問いだった。「いいえ。私は金持ちになることには興味はありません」と彼女は答えた。僧正はつづけて、手に入れることができる一番高価な宝は涅槃のそれなのだ、と説いた。「僧正が物質的な豊かさのことをおっしゃろうとしていたと思うとは、私はなんと単純だったのだろう」と彼女は反省する。
「アジア最後のフロンティア」とされるミャンマーに進出した日本企業は、2月1日のクーデター時点で400社をこえる。日本政府はスーチー政権が推進する民主化と経済発展を官民あげて全面的に支援していくと約束した。だが私たちは、ミャンマーの人びとが期待する経済発展とは何かをどれだけきちんと考えたことがあるだろうか。ビルマの実像とはかけ離れた一方的なイメージで平和と鎮魂をうたいあげた『ビルマの竪琴』とおなじように、いまこの国への一面的な理解と思惑を先行させた経済成長を「貢献」だと思い込んでいなければ幸いである。
最後に、日本人の物語としての平和のメルヘンにすぎなかった『ビルマの竪琴』について、もうひとつだけつけくわえておこう。 作者の竹山道雄は、ベトナムへの米国の侵略戦争に反対する声が日本でも高まってきた1960年代後半に、日本政府とともに米国を支持した。彼は朝日新聞のインタビューにこう答えた。「平和は貴い。だから平和を叫ぶだけでなく、どうして平和を実現するかを考えなければならないんです。今は共産主義を拒否することが平和の道です」。彼は米国が共産主義と敵視するベトナム人の闘いが、民族解放運動であるとは理解できなかった。ビルマでの日本の戦争がどのようなものであるかを問わずに、平和をうたいあげた姿勢と通底している。
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