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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年03月19日13時27分掲載
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文化
〖核を詠う〗(324)『角川短歌年鑑』(令和3年版)から原子力詠を読む「眠れずに網膜の奥灼けるよう この三月はあの三月だ」 山崎芳彦
今回は『角川短歌年鑑・令和3年版』(角川文化振興財団、令和2年12月7日刊)に掲載の「自選作品集」、「作品点描」、「角川歌壇特選作品集」から、筆者の読みによって「原子力詠」を抄出、記録させていただく。月刊総合短歌誌を発行している角川の「短歌年鑑」を、この連載で2011年の福島原発事故以降、毎年度読ませていただき、歌人が原子力に関わってどのように作品化しているかを知るための一環として読み続けている。「あれから10年」と言われるが、福島原発事故以後の数年に比較すると、「原子力詠」として筆者が読んだ作品数は、かなり少なくなっている。これは、全国の歌人が原爆、原発によせる思いの変化だと単純に言うべきことではないだろう。人びとが生きる環境、世相の動きの変化にともなって、短歌媒体の視点の変化によることも多いだろうし、また短歌人の詠うテーマの変化も映していると思う。
しかし、東北、とくに原発の被災が深刻に続いている福島の歌人の原発苦の直視、さらに原発が、あの事故の経験を経ても再稼働し、「原子力ムラ」の構造が稼働していることへの[怒り]、「どのような10年だったのか」を問い、「復興」をうそぶいて人々の苦難を顧みない政治・経済の支配者とそれに追随して真実を覆い隠す者たちにまつろわない、現実を踏まえて真剣に未来を考える確かな歌人の強靭で豊かな志が、作品に生き生きと輝いていることに、筆者は感動し心をうたれている。
月刊総合短歌誌「角川短歌」3月号に「特別寄稿・東日本大震災から10年」(波汐國芳、佐藤通雅、本田一弘、田中 濯、梶原さい子、高木佳子、三原由起子、越田勇俊各氏の寄稿文)が特集されて、東日本大震災、津波、原発事故に関わる短歌作品を、それぞれ精力的に、個性多彩に様々な形で発信している各氏の論述が魅力的である。その中の高木佳子氏の「『以降』が意味するもの」と題する文章に共感し、教えられることが多かった。
高木さんはその中で、「『以降』という時間」、「土地の簒奪の意味」、「差別と偏見」それぞれに関して作品を抽いて興味深く、示唆に富んだ論考を展開したうえで、「失語と沈黙」の項で、次のように述べている。 「震災当初、私たちは目の前の悲惨な状況に『失語』したはずだった。それでも、どんな状況であっても言葉を潰えさせてはならないと奮い立ったはずだった。だが、十年が経つ今、それぞれの『震災以降』は分岐し、自らの生活実態、立ち位置、実感、思考、主張の差異に気付いている。 作品に詠えば詠うほど、自他の差異は明るみに出て拡散し、思わぬ人を傷つけ断絶し、あるいは過剰なまでに結びつけ、連帯するものになっている。 この不寛容な言語空間に気付いたとき、歌人たちは『失語』ではなく、『沈黙』を選んだ。問題化を避けて無言になった。報道された光景や話題をなぞる表面的な歌が多くなった。人間の思いや様々な感情を表せるはずの歌の本来は廃れた。 被災した歌人の歌は、痩せた。 選んだ沈黙を解いて、『以降』という時間のありようを引き受けて詠うことが、次の十年経の被災した歌人それぞれの、歌への制約であるように思う。」
このように論ずるに至る高木さんの論考全体に触れずに、最後の部分だけを記すのは、高木さんの本意に沿わないだろうことをおそれつつ、筆者の責任であるとの自覚の上である。
触れることができなかった寄稿者の論考にも、強く共感する内容があることは当然だが、ここで紹介することができないのは残念である。
『角川短歌年鑑』から「原子力詠」を読んでいきたい。
◇「自選作品集」抄◇ セシウムから来るなら来(こ)よと吐く火炎 カンナの花の咲き極まるを 原発を招きし人らシジフォスの刑として受けよその廃炉こそ 我が終(つい)の瞬も見ゆるや夕暮るる小暗き窓をしずかにひらく (3首 波汐國芳)
取り出されし「核」は如何にか保たるる 糺さざりしよ廃炉の後は (井上美地)
真つ黒い雪のふる日がくるだらう 黒い雨はすでに降りたり (江流馬三郎)
三・一一かの日忘れじ余震のなか電話くだされし原田禹(のぶ)雄氏 (大竹容子)
比治山の丘より見ゆる赤レンガ建物四棟被曝せしまま 戦争ちゅう軍服づくりに励みたるやさしき少女語り部となる 朽ちきたる屋根のあたりに揺れいるはからすのえんどう春の日ざしに 峠三吉〈倉庫の記憶〉に詠いたり被服支廟の中の呻きを (4首 相原由美)
〈原爆忌文芸大会〉開会の挨拶をせりヒバクシャ我は 〈原爆忌文芸大会〉この年も無事に済ませてなぜか寂しき 正月の雑煮に必ず入るるなり淡き緑の〈ながさき唐人菜(たうじんな)〉 野母崎(のもざき)の水仙群よ香の強き〈ながさき水仙〉一千万本 (4首 久保美洋子)
黒い雨の被爆者手帳得むために声あげて来し人らみな老ゆ 七十五年後の夏、見えないウィルスに縮小さるる戦禍追悼の場も (2首 高尾文子)
三・一一生きてこの世を思えとぞまためぐり来ぬ人のおごりを (玉井清弘)
この土の下に被爆者流したる血ありき眩みて足のひきつる (山口恵子)
おそひ来る津波の猛威(まうゐ)わすらるるなかれ一向(ひたすら)なべて呑み込み (吉岡 治)
双葉郡消防士たちの3・11どうきさへて読みつぎにけり (紺野裕子)
被爆者の平和の誓い聞きしのち首相は触れざり核廃絶に (時里直子)
ヒロシマに来るたび想ふ女師匠と三味線職人朝寝して死す (西王 燦)
眠れずに網膜の奥灼けるよう この三月はあの三月だ 国難が九年続いて僕はまだ備蓄を崩し、足したりしてる (2首 田中 濯)
◇「作品点描」に抽かれた原子力詠◇ (「作品点描1」 奥田亡羊 抄) ▼波汐國芳の作品 太陽光発電という 太陽が翳りゆくまで光たぐるや 原発の送電線が延びる丘手繰ってもたぐっても尽きぬ冬なり ふくしまやセシウム深野悔い深野手繰りたぐるを尽きぬこの道 (奥田氏は波汐氏の作品について、「『手繰る』という言葉が使われた歌をひいた。一首目は太陽光発電に対する批判であろうか。人間の尽きぬ貪欲さを大きなスケールで捉えている。二首目の『冬』は原発と原発事故による被害の喩であるのだろう。手繰るという動作に怒りと疑念がこもっている。三首目では『手繰る』は悔恨に用いられている。怒りのみならず絶望的な感情もあるのだろう。『悔い』だけでは表し切れない思いがこの動詞に託された。反復して現われる言葉や一首の中のリフレインが、呪術的な効果を生み出している。」と記している。)
(「作品点描2」 春日いづみ 抄) ▼古谷智子氏の作品 怒りそつと納めていつか省エネの内燃機関、感情機関 なれど怒る原発再開これの世のたつたひとつの子の被爆国 (春日氏は古谷氏の作品について、「(略)二。三首目歳と共に怒りを収める術をいつの間にか身に着けてしまったこと、『省エネ』、『内燃機関』、『感情機関』といったAIのような言葉が、醒めた態度を如実に表している。しかし『なれど怒る』と初句から語気を強める。『この被爆国』の『この』に、深い哀惜と強い拒否が滲む。」と記している。)
(「作品点描5」 小塩卓也氏 抄) ▼川野里子氏の作品 ここに。降りて。ここで。消えた。人がゐるなり。市電が停まる オバマの鶴 数さへわからぬ死者たちのほとりに置かれぬくつきりと二羽 (吹き入れる息はちひさく一度きり この鶴は息を吹き返さない) (小塩氏は川野氏の三首について、「この三首は『鶴の折り方』の一連二十八首から。広島平和記念資料館を訪れた時の印象がモチーフである。街中を走る広島電鉄の車両は全車が被爆したのだが、原爆が投下された時の瞬間を句点を用いて、ストップモーションのように描写している。『消えた』の語は痛烈な印象を読者に与える。二首目は、オバマ前アメリカ大統領が資料館に残した折り鶴を扱っている。『数さへわからぬ』と『二羽』との対照が、原爆の悲惨さを雄弁に物語っている。三首目のように括弧によって一首が括られた歌は一連の中で七首ある。すべてが鶴を折る時のつぶやきのようだ。まるでオバマが初めて鶴を折るのを横で見ているかのようなつぶやきである。」と記している。)
(「作品点描7」 林 和清 抄) ▼大口玲子氏の作品 被爆マリア像は教皇より先に着きて祭壇脇に据ゑらる 図書館に盗み見てをり『はだしのゲン』読んで苦しむ子の横顔を (林氏は、大口氏の歌について「多くの作を発表しながらぶれることなく、信仰と息子を軸に歌う姿は、底力というものを感じさせる。」と評している。
(「作品点描9」 遠藤由季 抄) ▼鈴木加成太氏の作品 火の鳥は原子炉に棲むといふ嘘はるはまた巡り来るといふうそ (遠藤氏はこの歌について、「福島の事故によって原発の安全性はお伽話となった。永遠のエネルギーとして期待されたが人間のエゴが生み出した存在だ。そんな安全神話が復活してしまう危うさも、穏やかな春は二度と来ないという恐れも、それぞれを孕みながらやわらかく詠われている。」と評している。)
◇角川歌壇特選作品集 抄◇ ▼来嶋靖生選 恩赦どころか容赦なく雨降り続き復旧作業遅れるばかり (福島県・中山道子)
▼内藤 明選 わたくしの川の傾斜がゆるやかになるころ混じる追慕の汽水 (福島県・斎藤秀雄)
▼大井 学選 やわらかく鳥が踏みゆく空中の見えぬ踏切り板のつめたさ (福島県・斎藤秀雄)
次回も原子力詠を読む。 (つづく)
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