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2021年04月16日10時22分掲載
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アジア
クーデター直前にスーチー氏と国軍トップと会見した日本のODAビジネスの黒幕 狙いは何か?
小雨に煙る東京・千代田区の「日本ミャンマー協会」前で14日、「軍事的企業との連携を直ちにやめろ」と叫ぶミャンマー人らのデモがあった。協会の渡邊秀央会長は、日本のODA(政府開発援助)ビジネスの黒幕とみられているからである。渡邊氏の大物ぶりは、2月1日のクーデター直前にアウンサンスーチー国家顧問とミンアウンフライン国軍総司令官と相次いで会っていることでも示されている。日本ではほとんど知られていない一民間人が政府と国軍のトップ、それもクーデターの首謀者とそれによって政権の座を追われた民主化指導者の双方とこの時期に会見したのはなぜなのか、またその狙いは何だったのだろうか。(永井浩)
▽クーデターの噂が飛び交うなかで 日本ミャンマー協会とはどういう団体で、ODAとどう関係しているかはあとで触れるとして、まず渡邊氏のミャンマーでのうごきを伝える報道に目を通しておこう。 国営英字紙グローバル・ニューライト・オブ・ミャンマーは1月19日の1面に、スーチー氏と渡辺氏が前日、首都ネピドーの外務省で会談した記事を2人がならぶ写真つきで報じた。会談では、政権の第2期におけるミャンマーへの日本の投資拡大、教育と健康分野をふくむ社会・経済的発展への継続的支援、経済と投資分野での相互互恵的協力の促進、若い世代に重きをおいた両国民間の接触の強化に関して、率直で誠実な意見がかわされた。 2日後の21日の同紙は3面で、渡邊氏がスーチー氏との会談の翌日19日にネピドーで、ミンアウンフライン総司令官と会談した記事を写真つきで載せた。会談では日本ミャンマー協会による両国間の友好のきずな活動と両国軍人の協力関係の促進について話し合われた。
一連のトップ会談は、日本のメディアでは報じられなかったが、ミャンマーでは注目された。それは、日本の官民挙げた同国への経済開発支援の目玉商品として巨額のODAが供与された、最大都市ヤンゴン郊外のティラワ工業団地建設に、渡邊氏が大きな役割を果たしている事実が知られているからである。 渡邊氏はミンアウンフライン総司令官とは何度か会っている旧知の仲だが、スーチー氏とは今回初めてだった。しかも彼女はこれまで同氏と積極的に接触しようとはせず、渡邊氏もどちらかと言えばスーチー氏に好感を抱いていないとみられていたのに、初の会談はスーチー氏からの招請でおこなわれた。これまでの両者のうごきを知っているミャンマー人らによれば、スーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が2016年からの第1次政権の運営にあるていどの自信を深め、今年からの第2次政権では日本のODAに大きな影響力をもつ渡辺氏の存在を無視できなくなったのではないかと見ている。
この会談が注目されたもうひとつの理由は、それから間もなくして国内では国軍がクーデターを起こすのではないかという噂が飛び交うようになったからである。前年11月の総選挙でNLDが圧勝し、国軍系の連邦団結発展党(USDP)が惨敗したことに国軍は不満をつのらせ、渡邊氏のスーチー氏と国軍トップとの会談後1週間もたたない1月26日の記者会見で、投票に不正があったと主張、クーデターによる政権奪取の可能性を否定しなかった。 スーチー氏は渡邊氏と会った時点で、すでにこうした国軍のうごきを察知していたであろうことは間違いないだろう。会談から2週間後の2月1日にクーデターが起きた直後、「ミャンマーを独裁国家に逆戻りさせてはならない」と国民に抵抗を呼びかけるスーチー氏の声明がNLDのフェイスブックを通じて流れた。地元メディアによると、声明は彼女が万が一のクーデターを懸念して側近に託していたという。
▽日本株式会社のODAビジネスの差配人 スーチー氏と渡邊氏との会談の中心議題は、報道にあるように日本からの投資をはじめとした各分野での関係強化であったことも間違いないだろう。 ティラワ工業団地は、2011年の民政移管でテインセイン政権が誕生してから急速に動きはじめた、オールジャパンの総力を結集したODAプロジェクトである。日本がこれにいかに力を入れていたかは、2013年5月にミャンマーを訪問した安倍晋三首相が団地内の経済特区を視察し、「ティラワ開発は日本とミャンマーの協力の象徴で、ミャンマーでの雇用創出の起爆剤だ。絶対に成功させなければならないし、日本政府も全面の支援を惜しまない」と強調したことでもわかる。 だがスーチー氏は、2015年の民政移管後初の総選挙でNLDが圧勝し、NLD政権が翌年に発足してからもティラワ開発にそれほど積極的な支持は表明してこなかった。それは、このプロジェクトの開発が軍政の流れをくむテインセイン前政権下にスタートした経緯や、日本のビジネス慣行に不慣れだったためといわれる。彼女がティラワ経済特区を初めて訪問したのは19年8月になってからである。国家顧問はスズキやヤクルトの工場を視察し、関係者との会合で「ティラワ経済特区の成功は、我々がここまでできると勇気づけるものだ」と強調した。今年2月28日にはトヨタ自動車の開業式にスーチー氏が祝福のメッセージを送ることになっていたが、クーデターでそれもお流れになった。
では渡邊氏は、ミンアウンフライン総司令官とは何を話し合ったのか。2人はその後再会談をしている。その意図を探るまえに、同氏と日本ミャンマー協会のティラワ開発への関わりを見てみておこう。 渡邊氏は自民党衆議院議員を6期、参議議員を2期つとめ、1986年に第3次中曽根内閣の内閣官房副長官、91年に郵政大臣を歴任した。政界引退後の2011年に一般社団法人・日本ミャンマー協会を設立した。氏とミャンマーとの出会いは、民主化運動が全土に拡大した1988年の前年87年に、中曽根内閣の官房副長官としてネーウィン政権のマウンマウンカ首相と軍人たちを日本に招いたのがきっかけだった。中曽根首相から両国関係の大切さを説かれ、以来、「私利私欲、権力欲の中からの発想ではなく、真に両国国民の今後100年の大計と将来の為」に、さまざまな活動に関わってきたとされる。協会の初代最高顧問は中曾根康弘元首相だった。 なかでも主要な活動がティラワの経済特区の開発で、その他ヤンゴン空港の改修、バルーチャン水力発電所の補修、JICA病院の医療機器の修復など、日本政府の援助がらみのプロジェクトに協会の会員企業が協力してきたという。それは、民間の投資、貿易の拡大、技術協力・支援、人材育成など経済発展をつうじてウィンウィンの戦略的関係の構築をめざすためとされ、会員企業への情報提供、ミッションの派遣、セミナー開催などのサービスをおこなっている。
ティラワ開発の経緯と渡邊氏が果たした役割については、「日本株式会社(Japan Inc)はいかにしてミャンマーで機先を制したか」と題する2012年10月のロイター通信の特集記事にくわしい。 それによると、渡邊氏は2011年の民政移管でテインセイン将軍が大統領に就任した直後に、新大統領と会った。テインセイン氏は彼がシャン州軍管区司令官だったときにゴルフを楽しんだ仲だった。大統領は渡邊氏にある取引をもちかけた。ティラワの経済特区を日本が開発できないだろうか、ただし日本が金を出してくれればの話だが、と。軍政時代の経済発展の立ち遅れを克服するためにテインセイン大統領は、一定の民主化を進めることで欧米諸国からの投資に門戸開放する政策を打ち出したが、米国やEUはまだミャンマー進出に慎重だった。中国は軍政時代から政治、経済両面で後ろ盾となってくれていたが、これ以上の中国依存は避けたかった。そこで白羽の矢が立てられたのが、戦前、戦後とも歴史的関係が深かった日本だった。 渡邊氏は大統領の提案を前向きに検討することを約束し、東京にもどるとさっそく、最初のたたき台がつくられた。少なくとも180億ドルの援助と投資、それに約50億ドル(5000億円相当)の債務帳消しの保証を政府と民間機関から取りつけた。これを突破口に、官民一体の日本株式会社がミャンマーになだれ込んできた。ロイターの記事によれば、「米国とEUを飛び越して、日本がゴールドラッシュと抱擁した」。 以後、渡邊氏が政治家時代に関係を深めた政官財の有力者に根まわして次々に打ち出されるティラワ支援策に追いついていくのに、外務省はきりきり舞いさせられる。ロイターはそれを、黒幕による個人外交と表現している。 日本株式会社がミャンマー側の新しいビジネスパートナーとして手を組んだのは、国軍との関係が深い「クローニー」(取り巻き)企業のひとつ、建設業財閥ドラゴンインターナショナル社の総帥で、ミャンマー商工会議所会頭のウィンアウン氏だった。同社は軍事政権トップの独裁者タンシュエ将軍が指示した新首都ネピドーの建設を請け負い、彼は米国政府のブラックリストに載せられていた。だから米国人は彼とのビジネスを禁じられていたが、日本は躊躇しなかった。ウィンアウン氏はティラワ開発への支援を表明し、ミャンマー側の共同企業体の形成に乗り出した。 この記事はミャンマーの民営週刊新聞が翻訳して掲載したため、国内でも大きな話題になった。
では、日本ミャンマー協会という民間組織の会長がミャンマーの政府と軍のトップと相次いで会うことができるほどの政治力を発揮できるのはなぜなのか。それは、協会の役員名簿で一目瞭然であろう。 最高顧問の麻生太郎副首相・財務相を筆頭に、政官財のそうそうたるお歴々が名を連ねている。副会長には大手商社の三菱商事、丸紅、住友商事の元トップ、理事には自民、公明、立憲民主の与野党の現・元衆参国会議員、関係省庁の事務次官経験者、大手企業の役員らがずらりと並ぶ。顧問は歴代の駐ミャンマー大使。正会員(2021年3月現在)は日本を代表する大手企業127社。協会は日本財団からほぼ毎年3000万円の寄付を受けているが、同財団の笹川陽平会長は「ミャンマー国民和解担当日本政府特別代表」でもある。協会はまさにオールジャパン、日本株式会社の縮図といえる。会員各社は同協会をつうじてミャンマー側とのODAビジネスの便宜を図ってもらい、その差配人である会長・理事長の渡邊氏には頭が上がらないということになる。 こうした日本のODAビジネスの本丸の存在とその活動実態は、内外のミャンマー人にかなり知れていたが、日本ではティラワ開発を筆頭にODAプロジェクトは先の安倍首相の発言に見られるように、「ミャンマーの民主化と経済発展のための官民挙げた全面的支援」という美しい言葉で推進されてきた。一連のプロジェクトがミャンマーの経済成長に欠かせないインフラ整備に貢献していることは事実だが、その裏面にうごめく利権や国軍との関係が表面化することはなかった。だが今年2月1日のクーデター後の国軍による民主化運動への血なまぐさい弾圧が激化するとともに、ODAの化けの皮がはげはじめた。日本の公的資金が投入されたプロジェクトの利潤が国軍系の企業に流れていることがはっきりしてきた。 だから、在日ミャンマー人と日本人がいっしょになって、「日本のお金で人殺しをさせないで!」との声を上げはじめ、外務省に対して「国軍に流れる公的資金を止めてほしい」と訴えているのである。そしてそのODAビジネスの巣窟とも見える日本ミャンマー協会にも、在日ミャンマー人と日本人が抗議デモを展開するようになったのである。
▽ビジネスのため勝ち馬に乗りさえすればいい 「私は余生のすべてをミャンマーのために捧げたい」というのが、渡邊氏の口ぐせである。だとしたら彼は、この国が歴史的分岐点に立っているいま、民主化勢力と国軍、既得権益陣営のどちらに余生を捧げようとしているのだろうか。 国軍関係筋の情報によると、クーデターの前々夜、ミンアウンフライン総司令官の側近との会合で、渡邊氏は総司令官に次の伝言を側近に託したという。 渡邊「民主化を後戻りさせないようにしてほしい」 総司令官の側近はこれに返事はせず、ニヤッとしただけだった。 会合の席には、日本大使館の通訳も同席した。
渡邊氏はクーデター後の2月19日までミャンマーに滞在した。クーデターに反対する市民のデモが拡大し、国軍の武力弾圧が激化していた。彼はその光景をどう見、どのように感じたのだろうか。こうした事態に対して、日本ミャンマー協会はなんの声明文さえ発表していない。ホームページには、氏の帰国後の同26日に都内のホテルで開催された理事懇談会、社員懇談会の報告が載っているだけである。「ミャンマーの混乱が拡大している状況下、最新の現地情勢について、現地出張を踏まえて渡邉会長より協会理事、協会会員企業に対して時勢を捉えた報告会が開催されました。理事懇談会に引き続き開催された社員懇談会には、コロナ対策の施された会議室に会員企業から約100名が参加し、渡邉会長の報告に熱心に耳を傾けていました」。報告内容はあきらかにされていないが、ホームページにはあいかわらず、ティラワへの投資を呼びかけるような情報が載っている。
だがミャンマーでは、いまや注目の人である渡邊氏の動静は見逃されていない。渡邊氏の帰国前日の2月18日、「良き友人の日本人はなぜ黙っているのか?」と問いかける投稿がフェイスブックにあった。 「日本政府はいつの時代でも我々の国に対して良くしていただいて恩があることは否定できません。でも、今回のクーデターでは駐在ミャンマー日本大使館は2月3日に声明文を出して以降、あまりにも静かです。それから国連会合でも日本はミャンマー事案に対して目立った動きがみられません。ドー・アウンサンスーチー(ドーは女性への敬称)と仲が良いとされる日本大使はなぜ沈黙のなか、疑問でいろいろ調べてみると(軍の)総司令官も我々が思っているほど間抜けではなかったんです。彼と日本政府との関係については分からないけど、日本の政界で今も影響力がある人たちと非常に仲が良いことが判明しました。 例えば、1月19日にミャンマーを訪問してドー・アウンサンスーチーとも総司令官とも面談した渡邊秀央のような人物は総司令官と非常に近いと言えます。グーグルで検索しますと、その2人がしょっちゅう一緒にいる姿が出てきます。 今回のクーデターで日本のようにミャンマーでたくさん投資されている国が沈黙しているのは、総司令官が日本政界の大先生たちと仲良くしているからだと考えざるを得ない。 今までにひと伝えで聞いたところによると、渡辺という人物は「ミンダマ」という場所の軍所有敷地20エーカー(約8万平方メートル)の利権を得ていると聞いています。ビクトリア病院の近くの敷地だとも言われています。確かな情報ではないですが。そのように政界を退いたと言っても日本の政界と政府に対してある程度の影響力をもつ人々が(軍の)総司令官を守っているから、日本が沈黙を貫いているのだと言われています。 それが本当かどうか別として、民主化へ移行する時期において良き友人としていてくれた日本が沈黙を守っているのは何か企んでいるのではと疑わざるを得ません。彼らが投資した事業への影響を考えて、誰になっても上手くやっていくために沈黙している可能性もあります。いずれにしても、日本政府は総司令官だけで今後ミャンマーとビジネスをやっていけると考えるほど愚かではないと思います。 ですから、日本大使館はミャンマーの民主化革命に対して沈黙ではなく、良き友人としてミャンマー国民に寄り添って民主主義の回復を要求していくべきだと思っています」
このような見方に従うなら、渡邊氏がアウンサンスーチー氏とミンアウンフライン総司令官の双方に会った狙いが解けないだろうか。氏は民主化勢力を支持していたのではない。NLD政権であれ軍政であれ、日本のビジネスにとって安定した投資環境を保障してくれる政権ならどちらでも歓迎なのである。つまり勝ち馬に乗ることが最優先課題なのである。だから、総選挙後に情勢がふたたび険悪化しはじめた時期にミャンマーをおとずれ、両勢力のトップに顔つなぎをすることで、形勢がどちらに転んでも対応できるような布石を打ったのであろう。 さらに言えば、これが日本政府の強調するスーチー氏と国軍との双方のパイプなるものの正体なのである。しかもそのパイプは、いまや何の機能も果たせないままなのである。
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日本ミャンマー協会に抗議するミャンマー人たち





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