私は最近、「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソーの社会契約論を日本に紹介した中江兆民の伝記や著書をいくつか読みました。YouTubeチャンネル「フランスを読む」で、フランスのボルドー・モンテーニュ大学で教鞭をとっているフランス人の中江兆民の研究者エディ・デュフルモン氏(ボルドー・モンテーニュ大学)にインタビューしたことがきっかけでした。いったい、なんでフランス人が中江兆民に関心を持つのだろう?というのが、私が抱いた謎でした。
■中江兆民とパリ(YouTubeチャンネル「フランスを読む」#20)
https://www.youtube.com/watch?v=jyzJVKH6FfQ&t=5s
中江兆民は明治維新から3年後の1871年に岩倉具視の欧米視察団にフランスへの司法留学生として随行し、横浜から米国を経て翌年1872年1月、フランスに到着します。1871年はパリ・コミューンの年で、兆民はパリ・コミューンの熱気冷めやらぬ、傷跡の生々しいパリを目にしたことになります。パリで兆民はフランスの共和主義者の法学者や哲学者らと交わり、大きな影響を受けています。
当時のフランスの共和主義者たちは、1世紀前に書かれたジャン=ジャック・ルソーの「社会契約説」の熱心な読者でありましたが、ルソーの批判的な読み手でもありました。彼らはルソーの社会契約論の中で、個人の自由を抑圧しかねない部分については批判を加えたうえで理解をしていたのです。「一般意思」と言われる「全体の意思」というものが、全体主義思想に見なされる可能性があったからでした。兆民は、ですから、ルソーの批判的読解を吸収しています。
ここでフランスの近代史を振り返ると、1789年に革命が実現して、一度は王政を廃止します。しかし、19世紀に入るとナポレオンによる帝政、王政復古さらに、ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンによる第二帝政と、共和制が何度も廃止されています。兆民が訪れた1872年はルイ・ナポレオンのフランス軍が普仏戦争に敗れて、その結果、第二帝政が廃止され、第三共和政になった直後でした。つまり、兆民が体験したパリは、反動政治の長い期間にフランスの共和主義者たちがこつこつと理論を積み上げ、思想を練磨していたその成果が花開いた時でした。フランスは1789年に一瞬に共和制になった、というより、共和制を獲得するまで100年以上を費やしたと言った方が適切でしょう。
中江兆民(1847−1901)は土佐藩で漢学を修め、藩のエリートとして、長崎や横浜、江戸などで蘭学、英語、フランス語を学んでいます。貿易会社を立ち上げた坂本龍馬とも親しかったそうです。1868年に日本は江戸幕府から明治政府に転じ、「王政復古」を経験していました。
こうした状況のもとで、中江兆民はフランスの共和主義者たちから、共和主義思想を吸収し、帰国後は漢学で養った孟子の東洋思想を融合して、独自の自由哲学と、さらにそれに基づいた自由民権運動の政治思想を形成していったのだと、エディ・デュフルモン氏は言っています。明治政府が岩倉具視の使節団を1871年に欧米に派遣した当時は、日本の憲法の草案を作成する時期でした。フランスの共和主義を吸収した兆民とは異なって、王政だったプロイセンの立憲君主制を結果的に明治政府は取り入れていますが、その中心的人物は、兆民とパリで交友していた井上毅(法制局長官)でした。
当時、日本が共和制を取るか、君主制を取るかにおいて「王政復古」で明治維新を成し遂げた日本の政治状況を考えると、共和制を導入するのは難しい事情があったように思えます。しかし、今振り返れば、フランスの共和主義をよく理解していたと思われる井上毅がプロイセンの立憲君主制をなぜ採用したかと言えば、欧米列強を前にして、民主主義をやっている時間がないと彼は考えていたのではないかと推測します。民主主義国を作るのは時間がかかります。さらに民主主義においてはものごとを決めるのに時間がかかるのです。1840年代のアヘン戦争で欧米に敗北した中国を見て衝撃を受けた当時の日本の知識人たちには、欧米に急いで追いつかなければ、という切迫した意識が支配していたのだろうと思います。このことが結果的に、日本のその後の帝国主義や植民地主義などの弊害を生んでいく元凶となってしまいました。
フランスは1789年の革命の後、英国やドイツなど周囲の国家から軍事的に包囲され、山岳派の独裁政権あるいはナポレオンの帝政に戻ってしまいました。これは先ほど述べたように、民主主義ではものごとを決めるのには、民主主義における合意形成には時間がかかるため、結局、独裁政権や皇帝が独断で決裁する形の政治に移行してしまったのだと思います。
このことが今のウクライナの戦争とどう関係するかと言えば、ゴルバチョフのペレストロイカ、後継のエリツィンの民主化改革の後に、なぜプーチンが登場して、反動的政治になってしまったかを理解するヒントになると思えるからです。ロシアではソ連崩壊後に市場主義経済を導入したり、言論の自由や民主主義化を進めてきましたが、経済が安定しませんでした。その間、NATOは冷戦終結の時の口約束を覆して、旧東欧諸国を傘下に収めてロシアに向けてじりじりと肉薄していました。本当に冷戦が終結したのであれば、ソ連の主導していたワルシャワ条約機構が解体されたように、NATOも解体されるべきだったのです。
NATOが一方的に東方に拡大し、ロシアとの国境に迫っていったことと、ロシア国内の不安定な政治・経済状況の中で強いリーダーを求める声が強まってしまったことがプーチンの台頭の背景にあったのではないかと推測します。意外でも何でもなく、このことはまさに欧米の国際政治学者や戦略家たちが誤りだったと繰り返し指摘していることなのです。これは革命以後のフランス包囲網と似た心理にロシア人を追い詰めてしまったのではないでしょうか。民主主義国を作るには10年くらいではまったく不可能で、100年はかかると思った方が良いのです。韓国も台湾も植民地支配の時代から軍政と100年以上戦い続けて、今日の民主政を獲得しています。
中江兆民からウクライナの戦争まで、一見遠いですが、ものごとを変えていくには長い時間がかかる、ということを頭に入れておく必要があります。どの国であれ恐らくは、その間に反動的政治が起きうるのです。しかし、反動が起きたからと言って、その国民には民主主義の芽がない、と簡単に判断してはいけないのだと思います。冷戦の始まりに、「ソ連封じ込め」を米政府に提言した国務省の戦略家ジョージ・ケナンは、今のロシアの状況を見て、「ソ連を打ち倒したロシア人たちには、第二次大戦後の日本や西ドイツに充てられたマーシャルプランのような復興支援が与えられるべきだったし、それに値する人々だったと述べた」とコラムニストでジャーナリストのトーマス・フリードマンがニューヨークタイムズに書いていました。
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