ソフィー・ビュニクさんはソルボンヌ大学で地理学や社会学を研究した女性の研究者です。その後、来日して立命館大学で研究を続け、東京の日仏会館(フランス国立日本研究所)でも研究員として過ごしました。専門は高齢化で都市機能が縮小していく縮退都市(shrinking city)の問題です。高齢化が世界一進む日本にとってはまさに今、注目の研究者です。今回のビュニクさんのご寄稿はフランスにおけるコロナ禍に関する内容になっています。昨年、いただいた原稿を村上個人のブログで紹介させていただきましたが、ビュニクさんの許可を得て日刊ベリタでも紹介させていただきます。フランスでは2020年の春以来、マクロン大統領のもとで何度か自宅閉じこもり令が発令されました。そうした自粛期間にパーティを開いていた富裕層や政治家などが報道され、庶民の憤激を買ったのでした。ビュニクさんは話題になって議論を呼んだケースを紹介しながら、その背景に筆を進めています。
タイトル「パンデミックで悪化した階級間の壁 〜フランスにおける新型コロナ感染症対策の自宅閉じこもり違反者の報道から〜)
寄稿:Sophie Buhnik ソフィー・ビュニク (社会学・人文地理学) 翻訳:村上良太
新型コロナウイルスの危険性が世界に知れ渡ってから、国境閉鎖という前代未聞の措置が行われることになった。政治的統合を自賛しているはずの欧州連合においても、感染症の拡散防止に向け、あまり協調性のないやり方でそれぞれの国で様々な前代未聞の措置が取られた。すでに社会科学の多くの研究者たちが語ってきたように、感染症対策で取られた措置は、政治機構や政府に依存し、それらの意向で大きく変わる性質のものだった。ただ、感染症に対して国家的規模で採択された措置の厳しさと効率は、民主主義政府か権威主義政府かには関係しないことがすぐに明らかになった。
たとえば中国では、人々の行き来に対して全面的な禁止措置が取られた。韓国とシンガポールでは、新型コロナウイルスに感染した場合か、その濃厚接触者になった場合には、彼らの足取りを示すことができるアプリケーションをスマートフォンに導入することが強く求められた。 イランとタンザニアの場合は、逆に2020年初頭に新型コロナウイルスに取り組んで以来、むしろ自由放任主義を取ってきた。スウェーデンや日本では、緊急事態宣言下でありながらも、自宅閉じこもりは法律で課せられることはなく、感染予防は基本的に市民の責務へと転嫁された。新型コロナ感染のピークが来ると予想される中、日本の放任主義は国内世論から強く叩かれた。しかし、欧州から見ると、イタリアやフランスなどでは新型コロナ感染で大きな被害が出たため、日本でダメージが比較的少なかったことを考慮に入れると、日本で自由や通常に近い生活条件が維持されたことは高く評価されてよいだろう。「オックスフォードのCOVID-19に関する政府の言動記録」を参照すると、自宅引きこもりなどのコロナ対策の措置の厳しさの国際比較で、日本は100点中、47.22であり、フランスの87.96に比べるとかなり緩かったことを示している。
フランス政府の場合、2020年3月から厳しい自宅引きこもりの道を選択した。公式の理由は、公立病院にコロナ患者がすぐに満員になってしまうのを防ぐための措置だった。ベッドがふさがったり、緊急の治療を受けられなくなる危機がかくも早くからフランスを襲った理由は、過去20年に及ぶ新自由主義における様々な施策と予算縮減の結果だった。
公共の出会いの場、博物館や美術館、レストラン、カフェ、書店などはほぼ継続的、かつ全面的に1年間に渡って閉鎖を余儀なくされた。教育に関しては、幼稚園から大学まで大きな制約を受けた。教室に生徒が来る「 presentiel 」と、一部の生徒だけが教室にやってくる「 semi-presentiel 」を状況に応じて入れ替えていたのだが、その運用は非常に難しいものだった。教員たちの多くは、大きな疲れを感じることになった。自宅引きこもりがフランス全土で求められた時(2020年の3月17日から5月11日まで、次に10月30日から12月15日まで) あるいはいくつか特定の地域で命じられた時(2021年2月26日から)住民たちは自分の住んでいる建物のあらかじめ決められた階から外への外出が禁じられた。
閉じこもりの最初の時期においては、「特別の外出許可証」を自分でプリントアウトしたり、コピーしたりして携行しなくては外出できなかった。しかも、自宅から徒歩で1キロを超えると罰金刑が待ち受けていた。
10万人もの警察官と憲兵が動員され、市民が自宅引きこもりを順守しているかどうか監視を行った。多くのフランス人が一度ならず、アルフレッド・ジャリ作「ユビュ王」の世界のように、理不尽な状況を強いられたのだった。たとえば、個人が使うプリンターの詰め替えインクを買うために証明書を作成しなくてはならなかったのだが、そもそもインクがなかったらその証明書を印刷できない、というように。
フランスの自宅閉じこもり命令によって最も仕事の不安定な人々が雇用や生活条件の点で被る影響については、異議がほとんど認められなかった。低所得者に対する支援や地域ごとに連帯の取り組みがあったにも関わらず、フランスの低所得層で貧困がかなり進行し、小さな商店群の多くが倒産の危機に陥った。
いわゆる恵まれない地域では、とりわけ失業率が非常に高くなり、その子弟は教育施設からも切り離され、家庭内暴力も横行した。背景には狭い住宅に多くの人が詰め込まれていたことや、学校でただ同然で配給されていた学校食堂の食事ができなくなって発生した飢えがあった。
今後は家庭で、子供らに金を払って食事を与えなくてはならないのだ。他の国と同様に、新型コロナは学生に対して、一層強くしわ寄せが来た。というのも大学生たちにとっては、PCのスクリーンで受講する講義は、大学生である意味が乏しいと感じさせるものだったからだ。彼らは学業を放棄し、将来どう生きて行けばよいのかもわからなくなった。とりわけ、サービス業やレジ打ち、企業研修などのアルバイトの業務がなくなったことは、豊かではない家庭の子弟にとっては学費の足しにする資金源が失われることを意味する。2020年9月末に新学期が始まってから、18歳から24歳の若者たちの一定数が満足に食事がとれていないことが明らかになった。大学の食堂であれば1ユーロで食事ができたのに、そのチャンスが失われてしまったからだ。
日本で働き、暮らしているフランス人にとっては〜その間、私はフランスに帰国することができなかったのだが〜、フランスで人々がもっと苦しい思いをしているのを遠くから見守るのは苦しいものがあった。そして今では1年を超えるが、パリやリール、ナントなどの都市が閉鎖された状況を想像するのもまた辛いものがあった。日本では東京でも大阪でも出かけて行って外食することもできるのだ。日本ではいわゆる「三密」を無視した場合は、感染リスクさえ本人が引き受ける覚悟があればよかったのだ。
日本からフランスの現実を眺めると、公共政策では官僚主義的な特徴が色濃く見える。そのメリットも、デメリットもだ。この状況はフランス社会に潜在する怒りを増幅させることになった。すでに「黄色いベスト」運動の危機で、十分に悪化していたというのに。その怒りはイデオロギー的に対立しあう様々なグループの間で緊張を高めた。それぞれ対抗する「敵」に怒りの矛先を転じたのだ。
右翼について言えば、「イスラム主義の左翼」に対する敵意が沸き起こった。これは日本におけるネトウヨたちによる移民や韓国・朝鮮系の人々へのインターネット上での威嚇とよく似ている。右翼の論説記者は、若者たちが夕方、出歩いてウイルスを弱い人々に、特に彼らの親たちにまき散らしていると言って非難した。また彼ら右翼の論説記者は国家経済を守ろうとリベラル派的なポジションを取って、あまり厳しくない措置を求めた。つまり感染症から健康を守る責任を国家から社会に転嫁し、個々人の住環境の状況に応じた不平等な手段へと対策を移すことだった。富裕層の世帯は広い住居で生きることができるが、そうではない世帯は狭い住まいに多くの家族が集まることになる。その結果、子供たちのオンライン学習の状況は劣悪になってしまう(個室ではなく、静かさもないなどなど)
それとは対照的に大衆や急進左翼運動の人々の意見は、メディアパール(Mediapart)などの媒体を通して「モラルのある経済」という考え方を浮き上がらせた。政治学者、サミュエル・ハイアットが2020年に強く主張したように、だ。フランスのように、その政治史や現代社会が「自由・平等・友愛」という考え方に愛着を持つ国の場合は〜これは1789年のフランス革命の標語だが〜民衆は理屈の上では全体の利益や国家の利益のためには、一時的に自由を削られることも受け入れることができる。これは危機の際に崇高な人間(翻訳者注:すなわち独裁者)に国を委ねる、という欲求とは異なる。
新型コロナウイルスとの闘いに、このことを当てはめてみると、民衆は緊急事態に備えた対策に対して了承していると言える。もし、各自がウイルス拡散を避けるために、求められた規則を尊重するならば、である。
「今後、私たちにもっと身近な地域か、世界的な規模のことしか存在しないとすれば、このことは意味を持たない。しかし、両者の中間の領域では、大勢を束ね、かつ軍も保有するただ1つのプレイヤーで占められるのだ。国家、とりわけ行政府である。組織集団と連帯を奪われた時、私たちは一人一人が国家と単独で向き合わなくてはならなくなる。国は私たちを守り、病院で治療を行う。また、警察を通して、私たちの行動を統制し、政治のリーダーの口を通して、私たちがどう振舞うべきかを示す。もし私たちがぐずぐすしたり、不十分にしか命令に従わないようなら、叱りつけもする(…)
だが、国はその全能性と統治行動の激しさの真っただ中においてすら、弱さをもまた露呈させもするのだ(…)たとえば、国民に自宅閉じこもりを命じた時、予想できなかった大量のロジスティックの問題が浮上することになった。国家はあらゆる行動も、発言も、注目され、検証され、詮索されるために一層緊張を強いられた。というのも、国民の領域を独占するのは国家に外ならず、すべての眼差しが国に注がれるからだ、プロフェッショナルのメディアが運営するソーシャルサイトなどによってである。政治家たちは常時、自分たちの無能さと国家の無力さをさらしてしまうリスクを抱えつつも、政治的アピールを行いたいという思いに心が揺れている。(…)とりわけ、政策の失敗を目隠したいということである。1つ例をあげれば、政治家たちはこの間、軍や科学者などと、頻繁に会合を行った。そうした事実は示さなくてはならないのだが、そこでどんなことを具体的に話しあったか、その中身については語ってはならないのである」 (サミュエル・ハイヤット 2020年3月23日)
まさにこの点で緊張が高まる。なぜなら新型コロナウイルスの流行によって、収入の格差が広がったからだ。フランスのみではない。収入の格差は、コロナ危機の期間にはその間を耐え凌ぐための生活条件にも同様に格差を生みだした。最も裕福な世帯や政府に期待されたのは、まずは最も貧しい人々への寄付を行いつつ、経営者や株主として、仕事の条件や報酬について改善することだった。
ところが、実際はその逆だった。企業は補助金を受け取り、企業幹部たちは遠隔で仕事ができた。また株主たちはIT企業に投資していれば儲かった。一方、労働者や配達員や看護師たちはロジスティックの基盤が崩れるのを防ぐために、職場に通勤しなくてはならなかった。リスクを引き受けたのは彼ら労働者たちだった。もっと悪いのは、マクロン大統領がこの期に及んで労働界の改革を進めていたことだ。教育界など、左派の労働組合や労働者たちの抵抗をよそに、である。
常勤や非常勤の研究員・教職員たちのこうした怒りに対して、断固たる処置を行ったのが、高等教育担当大臣のフレデリケ・ヴィダルだった。ヴィダルは、それらの教職員らに「大学におけるイスラム主義者の左翼」というレッテルを張り、大学人たちが守ってきた批判的知を貶め、肉体においても精神においても危険に陥れたのだった。
(つづく ソフィー・ビュニク)
寄稿:Sophie Buhnik ソフィー・ビュニク (社会学・地理学)
■「パンデミックで悪化した階級間の壁 〜フランスにおける新型コロナ感染症対策の自宅閉じこもり違反者の報道から〜 その2」 ソフィー・ビュニク
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202208061349026
■フランスの社会学者メラニー・ウルスさんの見つめる日本の「貧困」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201912170158472
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