私は2019年3月に首相官邸前で行われた日本マスコミ文化情報労組会議主催の表現の自由を求める集会を聞きに行ったことがありました。そこではマスコミ各社のスター的な記者や労組の有力者たちが集まり、官邸が記者たちにかける圧力に抗議していました。
■首相官邸前で行われたマスメディア・ジャーナリスト・市民の抗議集会 "FIGHT FOR TRUTH” 官房長官らの記者に対する不当な質問妨害に抗議
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201903150007035 私も映像報道分野の末端に位置する人間だったので、これに参加したことに後悔はまったくないものの、その後、1つだけ納得できないなという苦い思いがつきまとってきました。それは安倍首相暗殺翌日の大手新聞の見出しが金太郎飴的な同じ文だったことで、どう考えても不自然だったことです。これは将来起こり得る戦争の第一撃はどちらの国が・・・という重要な報道については再び大本営発表になる可能性を示唆しました。私は1945年以後の日本の新聞史で最も重大な事件だと思っています。
これについて、本来なら同じような集会があってしかるべきだし、あるいはなかったとしても、労組内部から内部告発があってもおかしくないと思うのです。しかし、私が寡聞にしてなのか、それに類することを新聞社の人から耳にした記憶が皆無です。官邸前の2019年の集会を行った時の真実への希求の圧力が残るなら、なぜこのことがスルーされてしまうのか私には不可解です。
さらに、安倍首相時代に常習化していたマスコミ幹部たちと首相との夕食会の必要性とかそこでの事実などもまったく報じられませんでした(あるいはどこかで記事が出たのでしょうか?)。私はそこにスター記者や有力な労組の人々ですら、逆らうことができない力学があるのではないかと思っています。そして、残念だけれども、その不可解さ、不透明さこそが今日、新聞読者が「新聞はもう日本社会から一切なくなっても仕方がない」、と思う理由だろうと思います。
かつてなら、少なくとも「新聞は社会の木鐸」という通念が最後に機能していましたが、安倍首相時代の10年弱ほどの間に、権力との癒着が強まって、政府PRにしか見えなくなってしまって、それならダダで配ってくれ、ということになったのです。ところで、私は、この私の個人の不可解な思いを埋める文章に今日出会うことができました。それは朝日新聞労組ではなく、朝日を辞職した元記者による文章でした。SAMEJIMA TIMESを主宰する鮫島浩氏のブログです。私が不可解に思っていたことの大まかな理由はここに書かれてあると思わざるを得ません。
■SAMEJIMA TIMES「高齢読者も離れ、部数減を上回る広告減に…政府依存を強め無難で凡庸な記事を量産する新聞社は「老害」になった」
https://samejimahiroshi.com/masukomi-asahi-20230105/
この問題はデジタル化の時代に、大手新聞各社が対応できていないことを示唆しています。しかし、経営者たちはそれを直視せず、むしろ、政府の資金で生き残りを図ってきたところに問題があるのでしょう。かつて1990年代に日本の金融界が遅れていると叩かれ再編を促されましたが、今日新聞メディアが同じ事態に立ち至っています。権力と癒着して延命を図ったのだとしたら、一度全部滅びてもよいのだと思います。
新聞への夢を持っていたからこそ、以下のような記事を私は書いてきました。そして私もまたその新聞社で、飯を食わせていただいた時期が4年もあったのですから。
■The Japan Times を含めて、日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)は日本政府の広告費その他資金が毎年各社にいくら入っているか公開すべき
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202006020052312
■新聞社は識者を集めた紙面審議会などより、自社の記者同志で首相との会食や記者クラブ報道の是非を論じるべきではないか
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201703070027132
■マスメディアは自社の幹部が中華料理屋で首相と何をやっていたのか、まずそれを書くことから
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702281448222
村上良太
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