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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2023年06月22日20時21分掲載
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文化
メフィスト ―― ドイツ的心情と悪魔 高橋順一(たかはしじゅんいち):早稲田大学名誉教授・思想史
クラウス・マンの小説『メフィスト』の主人公ヘンドリック・ヘーフゲンのモデルは、ナチス時代にプロイセン国立劇場の監督を務めた俳優グスタフ・グリュントゲンスである。1981年に制作されたイシュトヴァーン・サボー監督の映画「メフィスト」はこの小説を原作としており、当たり役であったメフィストを演じるヘーフゲン=グリュントゲンスの鬼気迫る様相が印象的であった。
ところでメフィストという言葉はいうまでもなくゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔(デーモン)の名メフィストフェレスに由来する。『ファウスト』の主人公ファウスト博士は、悪魔のメフィストフェレスと、魂を売り渡す代わりに若さとエネルギーを取り戻す契約を結び、メフィストとともに天上と地上を縦横に駆け巡る冒険の旅に出る。一般にゲーテのファウスト博士は、近代とともに出現した、神に頼らず自らの頭と手(技術)を使ってこの世界をたくましく切り拓いていこうとする工作人(ホモ・ファベル)としての人間の本質を表現しているといわれている。つまりファウスト博士は、神が支配する中世的世界から解放され、自らの理性と技術の力で世界を征服し支配するようになった人間の時代としての近代の、あるいはそこへと突き進もうとする歴史の動きの一種の寓意だということである。なるほどファウストというドイツ語(Faust)は「こぶし・げんこつ」を意味しているから、こぶしを振り上げて荒々しく世界に挑もうとする人間の姿を想像していいのかもしれない。だが一つの問題がある。もしファウスト博士が自立した個人として自然や世界を支配する人間の寓意だとするならば、ファウスト博士はなぜメフィストという悪魔を必要としたのだろうか。それを考えるためには、視点をメフィストの方へと移して、メフィストの意味について、あるいはメフィストの側から見たファウスト博士について考えてみる必要があると思われる。
*
第二次世界大戦がヒトラーの死とナチス・ドイツの瓦解とともにようやく終結した1945年5月29日、アメリカ合衆国の首都ワシントンの国立図書館で、クラウス・マンの父トーマス・マンの「ドイツとドイツ人」という講演が行なわれた。そのなかでマンは次のようにいっている。
「ゲーテの『ファウスト』は、中世と人文主義〔ルネサンス〕の境界線上にある人間、不遜なる認識衝動から、魔術に、悪魔に身を委ねる神的人間を主人公にしています。知性の高慢さが心情の古代的偏狭さと合体する時、そこに悪魔が生まれます。そして悪魔は、ルターの悪魔もファウストの悪魔も、私にはきわめてドイツ的な形姿のように思われて仕方がありません」(1)。
この講演でマンが明らかにしようとしたのは、ナチス・ドイツという「悪魔」の所業がなぜドイツという風土、政治・社会、文化のなかから生じなければならなかったということである。そのときマンが注目するのは、中世からルネサンス・宗教改革期のドイツに見られた「ある種の心情」、「一五世紀末の数十年間における人間の心情の状態、中世末期のヒステリー、潜在的な伝染性精神病のいくらか」(2)である。それは「ドイツ的心情との密かな結びつきの問題」(3)と言い換えることが出来る。
この『ファウスト』を通して、あるいは宗教改革の指導者であったルターを通して見えてくる、ときに狂気の様相を帯びる「ドイツ的心情」と「悪魔(デーモン)」の結びつきこそ、ドイツにナチス・ドイツが生まれてしまった根本要因としてマンが見ようとしたものである。ではいったいこの「悪魔」、すなわちデーモン=メフィストとは何なのだろうか。
マンはこの「ドイツとドイツ人」で提示した「ドイツ的心情」と「悪魔」の結託という問題をより深く掘り上げるために長編小説『ファウスト博士(ドクトル・ファウストゥス)』(4)を執筆した。正確にいうとこの小説の構想と執筆はすでに『ヨゼフとその兄弟』全四部作の完成直後の1943年5月に始まっていたので、「ドイツとドイツ人」のなかで示された「ドイツ的心情」と「悪魔」の結託という問題は、この小説の執筆過程で生まれたものといったほうがよいかもしれない。この小説でマンにとっての「ファウスト博士」にあたるのが主人公アードリアーン・レーヴァーキューンである。彼は天才的な作曲家だった。ではなぜマンにおいて「ファウスト博士」は音楽家でなければならなかったのだろうか。「ドイツとドイツ人」のなかでマンは次のようにいっている。
「伝説や文学作品がファウストを音楽と結び付けていないのは、大きな誤りです。ファウストは音楽的であるべきでしょう。音楽は悪霊的な領域です。―― 偉大なキリスト教徒であるゼーレン・キェルケゴールは、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を論じた彼の悲痛で熱烈な論文〔『あれか、これか』第一部〕の中で、このことを無類の説得力をもって詳論しています。音楽はマイナス符号のついたキリスト教的芸術です。それ計算し尽くされた秩序であると同時に混沌を内にんだ反理性であり、魔術的呪術的身振りに富み、数の魔術であり、あらゆる芸術の中で現実から最も遠い芸術であると同時に最も情熱的な芸術であり、抽象的にして神秘的であります。ファウストをもしドイツ人の精神の代表者にするのなら、彼は音楽的でなければならないでしょう。なぜなら、ドイツ人の世界に対する関係は、抽象的にして神秘的、すなわち音楽的だからです」(5)。
マンが彼の「ファウスト博士」を音楽家にしなければならなかったのは、音楽が現実性と抽象性、合理性と反理性というなものを一挙的に合致させてしまう強烈な力を持っているからである。それは理非を停止させる力、あらゆる規範性を麻痺させる力である。そしてそれが、「音楽は悪霊的な領域」に属していることの理由になるのである。「ファウスト博士」によって具現されている「ドイツ人の精神」のうちに「悪魔」との結託という要素がはらまれているとすれば、「ファウスト博士」は何よりも「音楽的」でありかつ「悪霊的」でなければならないのである。
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ここでマンがキェルケゴールの「マイナス符号のついたキリスト教的芸術」という音楽観を取り上げていることもまた「悪魔」の問題を考える上で重要な意味を持っている。
マンの『ファウスト博士』の第13章に、主人公のレーヴァーキューンとレーヴァーキューンの親友でありこの小説の語り手でもあるツァイトブロームがハレ大学の私講師シュレップフースの神学講義を聞く場面が出てくる。私の印象ではこのシュレップフースはキェルケゴールを、少なくともキェルケゴールの神学をモデルにしていると思われる。シュレップフースの講義からまさに「マイナス符号のついたキリスト教的芸術」という言葉の意味が明らかになるからである。そしてそれが「悪魔」ののために不可欠な要素となるのである。
シュレップフースは、なぜこの世界には悪が、より端的にいえば悪魔が存在するのか、なぜ善きものとしての神はこの世界を創造するにあたって悪=悪魔も創造したのか問う。そしてファウスト博士(ドイツ人)の体現する強烈な意志が、神の善に逆らって悪を為すことによってしか具現化しえない人間の自由への渇望に支えられていることを明らかにする。「自由とは極めて壮大なもの、創造の条件、神すら妨げて、神に背反するわれわれは封じえない、と断念させるのだ」(6)。このことが悪=悪魔の最大の存在理由なのだ。シュレップフースは、この世界、この宇宙が完全なものであるためには、言い換えれば神が完全でありうるためには、自由を可能にする条件である悪=悪魔が創造されねばならなかったというのである。この悪の弁証法は、先ほど見た音楽の力の現われときわめて類似しているといえるのではないだろうか。
ではなぜこのことが「ドイツ的心情」の問題へとつながっていくのか。この章に続く第14章でレーヴァーキューンは、大学の友人たちと当時流行していたヴァンダーフォーゲル旅行をする。その旅のさなか、彼らはドイツの現状について激しい討論を繰り返すのである。ドイッチュリーンという友人は次のような発言をする。「ドイツの事業は常にある凶暴な未熟から生まれたのだ、われわれが宗教改革の民族であるのは不思議ではない。宗教改革はやはり確かに未熟の産物であるからだ」(7)。この「凶暴な未熟」という言葉に注目したい。ちょうどファウスト博士がメフィストという悪魔の手を借りて、言い換えれば悪の力によって、自由の暗喩である「若さ」を取り戻し世界に向かって荒々しく挑戦するのと同様に、ドイツ民族も「若さ」という「凶暴な未熟」によって世界を作り替え、完全なものにする事業へと突き進むのである。とするならばドイッチュリーンのいう「凶暴な未熟」とはまさに悪魔,メフィストに他ならないことになる。ここで宗教改革に言及していることがそれを証し立てている。なぜなら宗教改革とはルターの改革であり、そのルターをささえていたのは「ルターの悪魔」だったからである。ここでも問題は悪なしには善も完全もありえないという弁証法である。
あらためて「悪霊的」と訳されていた「デモーニッシュ」という言葉を想い起してみよう。ここに「音楽」も、「ドイツ民族」も、「凶暴な未熟」も、「ルター」も収斂していくのである。そしてこのことがファウスト博士の、より正確にいえばファウスト博士をそそのかした悪魔メフィストフェレスの意味でもあるのである。近代へと向う歴史においてこのような特異な要素を抱え込んだのは恐らくドイツ人だけである。トーマス・マンはその特異性をかつては礼賛した(『非政治的人間の考察』)。だがナチスの惨禍が全世界をずたずたにしてしまった後ではドイツ人はメフィストという病いに冒された怪物でしかなかったのである。グリュントゲンスもそうした怪物の一人であった。だが同時にこの怪物は「音楽」として ―― 芸術として、といってもよい ――、妖しいまでに強い魅力を放ってもいた。ベートーヴェンからシェーンベルクへと至るドイツ音楽の歴史は、その意味で音楽という「悪魔」の歴史であったといってもよいかもしれない。
(1)トーマス・マン「ドイツとドイツ人」(青木順三訳 『ドイツとドイツ人』所収 岩波文庫 1990)12頁(2)同 11頁 (3)同 12頁 (4)マン『ファウストゥス博士』(円子修平訳 『新潮世界文学』35巻 所収 1971)(5)『ドイツとドイツ人』12~3頁 (6)『ファウストゥス博士』 105頁 (7)同 121頁
高橋順一(たかはしじゅんいち)
1950年生まれ。早稲田大学名誉教授。専攻思想史。主な著書に『響きと思考のあいだ R・ヴァーグナーと十九世紀近代』(青弓社)『ヴァルター・ベンヤミン解読』(社会評論社)他、訳書にTh.W.アドルノ『ヴァーグナー試論』(作品社)他。
ちきゅう座から転載
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