私は以前から、米官僚たちを日本の各省庁に派遣して「研修」させてきたマンスフィールド研修という制度は、日本を構造改革するための米国務省の情報収集プロジェクトだったのではないかと考えている。マンスフィールド研修は1994年(※人事院のウェブサイトでは平成8年=1996年となっていた)に始まったのだが、アメリカが日本をアメリカ化するための「日米規制改革および競争政策イニシアティブ」(規制改革イニシアティブ)が設置されたのが2001年だった。規制改革イニシアティブから毎年日本政府につきつけられる要望書がいわゆる年次改革要望書である。これは多岐にわたって日本に規制緩和を迫るものだった。2001年と言えば小泉総理とブッシュ大統領の時代である。その間、アメリカは日本の省庁を分析して、どのような規制が存在するのか、そしてその規制官庁の人脈はどのようなものか、詳細に情報を集めていたと思われるのだ。恐らくその水脈は安倍政権が規制緩和のために官僚を従属させるための内閣人事局を設置した現在までつながっているのではなかろうか。もちろん、これは私が立てた仮説に過ぎない。
※マンスフィールド研修(人事院)
https://www.jinji.go.jp/kokusai/mansfield.html 「本研修は米国のマイク・マンスフィールド・フェローシップ法に基づき、外務省及び人事院の協力の下、米国国務省が実施するもので、米国連邦政府職員が日本政府機関等での実務研修を含む約1年間の研修を行うものです(平成8年度から開始)」 研修に参加した米国官僚の中で圧倒的に多いのが米国防総省の官僚である。
マンスフィールド研修を日本で進めたのが林芳正自民党議員だった。林議員はかつてアメリカのレーガン政権の新自由主義政策を推進してきたウイリアム・ロス(William V.Roth,Jr 1921-2003)上院議員の事務所でインターンとして働いたことがある。ウイリアム・ロス上院議員は1971年から2001年まで5期30年に渡って上院議員を務めた共和党の重鎮であり、「米政界ではレーガン政権下での減税法案で知られ、90年代後半には上院財政委員長として、日米貿易摩擦などに影響力を持った」(ワシントン共同 2003年12月15日の死亡記事より)ロス議員と林芳正氏が築いた制度が「マンスフィールド研修」である。アメリカの連邦政府職員が同等の日本の省庁に1年間在籍して日本の官僚システムを体験する制度である。
マンスフィールド研修に選抜された米連邦職員はまずワシントンDCで10ヶ月間研修を受ける。この10ヶ月の間に日本語と日本に関する知識を集中的に学ぶ。その間に、彼らの専門に合わせた詳細な計画を立て、1年目の終わりに6週間来日し、語学研修とホームステイに参加する。2年目は東京で過ごし、各省庁でフルタイムで勤務する。彼らが派遣される日本の省庁は「国防と安全保障、医療、エネルギーと環境、貿易と経済、電気通信、運輸、教育、銀行など」多岐の分野にわたる。警察庁も含まれる。この制度、どう見ても日本の官僚の人脈や様々な事情がアメリカに筒抜けになる制度である。
米国という国は英国とともに極めて戦略的である。米文学の研究者である宮本陽一郎氏が『報告書第25号〜ルース・ベネディクトの日本』という文章で、第二次大戦中にOWI(戦時情報局)とOSS(戦略情報局)が戦後の対日政策立案のための日本人や日本文化の研究をどのように行ったかについて書いており、極めて興味深い。ルース・ベネディクトの名著『菊と刀』が生まれたのもOWIの研究プロジェクトの一環であり、言うまでもなく対日文化政策に活用された。OWIもOSSもドイツと違って、全く文化を異にする日本人と戦い、戦後の統治をいかに進めるかを研究していたのである。「OSSの研究調査部は、大戦中のアメリカ合衆国の人文科学および社会科学の総体に限りなく近い。いわば知の国家総動員態勢の受け皿と呼ぶことができる」(同上)。 この米国の研究プロジェクトは日本映画や日本の書物を分析したほか、収容所に入れられていた日系人も調査対象にしていた。
日本は第二次大戦で米国に敗れたが、1991年のバブル崩壊と米ハゲタカファンドの日本企業のボロ値での買いは「第二の敗戦」と呼ばれた。1980年代が真珠湾攻撃で戦意高揚の時代だとすれば1991年のバブル崩壊はミッドウェー海戦での敗北だろう。昨日まで「ついにアメリカを抜いた。日本は経済で世界一になった」と日の丸を振っていたかのような日本人は、その後の失われた30年で再び焼け野原に立たされた。あるいはミッドウェー海戦にあたることは1985年のプラザ合意だったのかもしれない。もちろん、これは比喩で書いているのだが、バブル崩壊の1991年はソ連崩壊とも重なり、冷戦終結後の世界でアメリカが再び超大国として世界を支配する時代が始まったのである。
冷戦終結時のあの頃を振り返ってみると、1945年と同様に、時代の転機だったことがわかる。何しろ、1980年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と米知識人たちから激賞され、日本の官僚システムはすごい、と讃えられて日本人は自信満々というかわが世の春だった。ところが、バブル崩壊後は、日本型は全部だめで、「グローバル化」しないといけない、というアメリカンスタンダードこそが唯一の正義という時代が到来したのである。私はこの「変化」を学生時代から社会人への転機に体験したので、メディアの変わり身の早さを実際に知っているのだ。これは昨日まで「進め一億火の玉だ」と言っていた大人たちが、突然、民主主義を尊ぶようになった1945年の変わり身と基本的には同じように思えてならない。
このような冷戦終結から、およそ10年後に日本で構造改革が小泉内閣で実施されるが、小泉首相の時代に自民党は変質し、日本の政治経済も社会も大きく変わることになった。現在、4割に及ぶ派遣社員や非正規雇用の存在は小泉政権以後である(実際には小渕内閣時代にすでに派遣対象業種は大幅に増えていた)。しかし、それは一夜にして変化したのではなく、1990年代半ば以後着々と情報が収集され、対日戦略が練り上げられていたのではないだろうか。もし、文化の基本が相互交流であるなら、日本側の官僚たちもマンスフィールド研修の相互型として、ホワイトハウスや米国防総省、商務省、財務省などで1年間研修を受ける相互プログラムにしてもらうべきだろう。
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