昨年亡くなったフランスの哲学者ブリュノ・ラトゥールには人類学者としての顔もあり、そのことが彼に大きな視点をもたらした。『諸世界の戦争〜平和はいかが』は、ちょっと拍子抜けしたタイトルのようにも感じられるが、中身は非常に興味深い示唆に富んでいる。コロナウイルスの感染症に襲われたり、ウクライナで始まった戦争のことを案じたりしている私たちに、今、世界で何が進行しているかを考えさせてくれる。
本書では、「単一自然主義から多自然主義へ」という章のタイトルに象徴的だが、ラトゥールは近代以後においては<自然は単一で、文化は多様である>という風に信じられてきたという。単一な自然という考えをベースにして科学を発展させてきたのが近代の欧州だった。
「文化的差異が光り輝くとすれば、それは自然の統一が共通の分母を提供していたからであった」
「しかしこの平和な近代主義政治学には若干の障害があった。すなわち自然は魅力と意味を失ってしまったのだ!私たちが『近代』と呼ぶこの奇妙な時代が抱える矛盾のすべてがそこにある」
「近代化によって、人々は、色とりどりの要求、種々雑多な世界観、豊かな儀式慣習をそなえ生活様式の消滅を嘆くことを余儀なくされた」
こうした言説とともに、ラトゥールは、多文化主義は単一自然主義の裏返しに他ならない、と語っている。これが今、問い直されていることであり、ラトゥールはここから多自然主義なるものへの移行を提唱するのだ。
「単一自然主義はつい10年ほど前に信じられない怪物によって置き換えられてしまった。すなわち多自然主義である。多自然主義は多文化主義によって開始された〜そして多文化主義が、その前提となる偽善的寛容とともに木っ端みじんに吹き飛ばされたあとに〜悪魔的舞踏が加わった。もはや誰も、寛大に取りあつかわれることを求めていない。もはや誰も、自然化する者によって利害と無関心の眼差しで監視される『他のさまざまな文化のなかの』ひとつの文化にすぎない者であることに耐えることはできない。現実はふたたび緊急の検討課題となったのである」
「多自然主義は多文化主義によって開始された」とあるが、どのような思想的経緯だったのか、さらに興味をそそられた。そして、戦争という言葉が述べられるが、この戦争は現実の戦争でもあり得るが、本質的には比喩であろう。文化の前提にある自然観も、これまで考えられてきたような単一なものではなく、各地の人びとによって差異があり、<私たちの自然認識はあなた方の自然認識と異なる>ということだろうと私は解釈した。
「イザベル・ステンゲルスが挑発的に述べたように、私たちは寛大さの終焉を目撃した。比較人類学の偽善的敬意、人間性や人権や私たちはみな同じ世界のよく似た住民であるという事実の自己満足的主張の終焉を目撃したのである。いまや諸世界の戦争が存在している。平和、近代性の偽善的平和は、まちがいなく終わったのである」
西洋が近代文明を発展させ、全世界に普及させるときに依拠した「1つの自然」という考え方が限界にきて、世界には文化的多様性だけではなく、そもそも「自然」自体が複数形なのではないか、と考える時、それまでの「戦争」観も変化を余儀なくされる。つまり、過去の時代なら、西欧文明が世界をリードし、戦争はむしろ戦争ではなく、近代思想からはみ出たならず者たちをこらしめる警察行為だった。しかし、本書のタイトルにある「諸世界の戦争」とは、そうした西欧のモノサシが適用できなくなった世界で、どのような交渉、どのような外交が必要になるか。そうした大きなパラダイムの転換が生じていることを論じている。これは過去にも存在した一種の欧州の近代主義批判とも受け取れるだろうが、その視点は極めて新しく、想像力を掻き立てるものである。その背後には人類学で出てきた存在論的転換という視点を逆転させたスクールが存在しているらしい。そして、ラトゥールもその中に入るようだ。
本書の初版がフランスで出版されたのは2002年に遡り、当時の9・11同時多発テロ事件が多自然主義の論点に示唆を与えたと思われる。しかし、2020年10月に本書が日本で翻訳出版された時、そこにもう1つのプレイヤーである「新型コロナウイルス」=人間以外の存在者が政治を変えていくプレイヤーとして登場してきた。この変化も、本書の内容と響きあっているように思われる。かつて考えられたような人間と自然の関係に根本的な思考の変化が迫られてきたのだと思う。自然は人間が科学を武器に手を加えて改良するものだけにおさまらず、気候変動やウイルス、津波などが逆に人間を揺さぶり始めたのだ。人類が共通の分母としてきた自然が、実は共通ではなかった、自然には様々な異なる相貌があったということ=多自然主義を前提にした時、これまでの多文化主義とは異なる文化観もおそらく出てくるであろう。かつて世界には自然と様々な関係の仕方を持つ文化があふれていた。そこには動物や植物との交信もあっただろう。そういう自然観はこれまで単一の自然主義によって、非科学的ということで否定されてきたのだろうが、そういう自然観の単一性自体も疑われてきたのだろうと私は解釈した。それは今、自然がもはや魅力と意味を失っている、という先ほどの批判と対応するだろう。平安時代のように、ゆっくり月を眺めたりする習慣もなくなった。そもそも人間という「考える存在」自体が自然の一員であり、ウイルスと同じように地球に対して作用するとともに作用を受けているのである。
以下の一文は印象深いので、引用したい。文化の前提とされた自然と同様に「共通世界」は、思っていたほど人類全体に自明のものではなかったということである。まずは、それが何なのか?というところから歩みだす必要があると言うのだ。
「共通世界とは、自然と同様に、私たちの背後にあってすでに完成されたものではなく、私たちの前にあって一歩ずつそれを実現させてゆくべき巨大な課題である。共通世界とは、紛争を調停する裁定者のごとく私たちの手の届かぬところにあるものではなく、まさに紛争に賭けられたものであり、妥協が必要な議題〜交渉が生じた場合〜である。共通世界とは、つかみ取るべきものなのである」
書評としてはうまくまとめられなかったが、これはともかく百聞は一読に如かず、という本だと私は思う。以文社から出ている工藤晋氏による訳は非常に読みやすい。
■エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロと大阪、そして春 パトリス・マニグリエ(哲学者)”Eduardo Viveiros de Castro, Osaka and Sakura ”Patrice Maniglier
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702211840272
■「ケアの共産主義と、何もしないことによる貢献 :何かが起きている(起きる)のだろうか?」 パトリス・マニグリエ(哲学者)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202004300456104
■ブルーノ・ラトゥール著『どこに着陸するか? 政治をどう舵取りするべきか』
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202308102259374
■日仏会館のシンポジウム 「ミシェル・フーコー: 21世紀の受容」 フランスから2人の気鋭の哲学者が来日し、フーコーについて語った
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201805221137522
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