私は知人にタイの象使いをドキュメンタリー作品にしてきた人がいまして、伝統的なゾウの仕込み方について雑談で話を聞いたことがあります。まだ力の弱い小さなゾウの時代に、ゾウは人間に逆らわないように仕込まれます。逆らったら金属の刃のついた棒で引っかかれ、痛みを覚えさせられて、そうやって集中的にねちねちと学習させられるそうなのです。今では違った飼育方法もあるそうです。とはいえ、かつてはそうやってゾウを人間に服従させてきたのです。幼いうちから痛めつけて、徹底的に人間に服従することを学習させるのです。あんなに巨大なゾウが、ちっぽけな人間の意思にしたがって足を曲げたり、背中に人を乗せたり、曲芸をしたりするのは、その教育の賜物でしょう。自然界のゾウはその気になれば人間を鼻で突き飛ばして踏みつけることもできるのです。私は野生のゾウが怒りに燃えて、馴れ馴れしく近づいてきた少年を一瞬に倒して踏みつけてしまった衝撃的なシーンを見たことがあるのです。
日本では為政者に国民が平身低頭する文化が根強く残っています。どんなに悪政でも、基本的にお上が決めたことだからな、と従うのが日本人です。全員ではありませんが、95%くらいがそうではないでしょうか。しかし、これは日本人のDNAなのでしょうか?日本人の遺伝的な性質なのでしょうか?私はむしろ、文化を通して、子供時代からどんなことがあってもお上にだけは逆らってはいけない、ということを盲目的に教え込まれてきた結果ではないか、と思っています。
たとえば、私は子供時代、母親から「あなたが泥棒をしたら、お母さんは自殺するからね」と言われました。なぜ泥棒がいけないか、ということよりも、そういう形で、泥棒をしたら親が死んでしまう、という恐怖を植えつけられたものでした。しかし、この教え方で道徳が身についてしまうと、戦時や不条理な時代に、泥棒でもしないと生きていけない状況になった場合に、身動きが取れなくなってしまうのではないでしょうか。敗戦直後、闇市で買うことをせず、法律に従ってわずかしかない配給だけで生きようとしたために衰弱死した法律家のエピソードは広く知られています。法律というものは、このようなある特殊な時代や状況では、守っていると生きていけないような局面もあるのです。法律学には「期待可能性」という考え方があり、法律を守ることが期待できない局面での免罪措置があります。しかし、法律が適用されること自体が本当の正義とは逆である場合もあると思っています。たとえばナチスドイツの時代もそうです。ユダヤ人への差別や殺人を法的システムに沿って実行していました。そこには大量の行政文書がありました。仮に、もし法律の条文に他人を殺す命令が記されていた時、法律を絶対視して、私たちは他者を殺すのでしょうか?そんな風に考えていったとき、私の母の道徳の教え方は、江戸時代の五人組制度の一種の名残りのように思えます。
お上が決めたことには逆らってはいけない、という風土は自殺をもたらす風土でもあると思います。何かよくない状況があっても、責めを負うのは政治家ではなく、常に「自分」である、という文化を強いられています。そして、地震などの時もそうした「美徳」が繰り返し刷り込まれていきます。さらに、その最たるものが、革命に対する恐怖と敵意を人が若い時代に徹底的に教え込まれることでしょう。日本人は日本人として生まれるのではなく、このように作られていくのだと思います。そして、この文化を形成してきたのは誰なのか?という点です。私はその作られ方の中に、日本人の脆弱さの謎を解く鍵があると思っています。
※「お休み、母さん」('night Mother)
https://www.youtube.com/watch?v=3E2kkkaq5mc ピュリッツァ賞を受賞したこの米戯曲には母と娘しか出てこない。そこで二人は対話をするのだが、娘は人生がどうにもならないと思い、最後は自殺する。しかし、この劇の中では、二人の激しい言葉のやり取りがあり、激しいエネルギーが飛び交っている。
※'night, Mother (Rogue Theater Company)
https://www.youtube.com/watch?v=RdHDdJrPTYg
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