私は日刊ベリタでこれまでも度々、NHKや民放などのテレビ局を批判してきましたが、同時に過去には個別の番組や制作者という形で称賛もしてきました。第二次安倍政権以後、テレビ局はNHKが象徴的ですが、政府が右と言うものを左と言えなくなりました。たとえ個別番組で批判できても全体的には政府寄りの報道が基軸になっています。これは与党にとっては広告料なしで、莫大な広告PRを毎日打っていることと同じ効力があります。卑俗な言い方で恐縮ですが、与党にとってはたまらんうまさです。要するに、それが批判的報道であるか、肯定的報道であるかは、広告効果が180度違いますから、その意味で第二次安倍政権以後は、テレビは総じて与党の宣伝媒体になったと言っても過言ではないでしょう。
岸田首相が地方から寄せられた桃やカニやブリなどの農産物や海産物などを食べているシーンは、それらの地方の住民や農民・漁民への自民党の実質的な選挙宣伝CMと考えてもよいものです。ニュースということで無料で電波に乗せて自民党を宣伝できます。「うめ〜」の2乗です。TV報道がこれを毎日のように熱心にやっているのは自民党へのサービスなのです(野党の場合は、かつて立憲民主党党首だった枝野氏が毎日のように各地で食べたラーメンを写真に撮って、自分たちでコツコツツイッターにあげていたことを思い出しましょう)地方の生産者たちにとっても江戸の最高権力の殿たちがカメラの前で試食して、「うまい」と太鼓判を押してくれることは、大きな宣伝効果です。テレビ局にとっても津々浦々の美味しい物産の報道は、政府に恩を売ることができ、政府と親密になれる貴重な機会です。
こうした圧倒的な有利さの上にさらに、選挙報道では平等に扱わないと電波停止にする、と高市早苗総務大臣(当時)が圧力をかけました。これが与党の連戦連勝を可能にする基盤のエンジンになっています。与党が勝つのは無理もないのです。広告を毎日、朝昼晩、全局で打っているのです。
こんな風に報道のゆがみを指摘するテレビ批判もあり得ると思いますが、むしろ、もっと言えばテレビは本当に必要だったのか?という視点からの根源的批判もあり得ると思います。これはテレビが公共性を失うと、与党の宣伝媒体でしかなくなる、という現在から生まれる視点でしょう。しかし、そこからもっと根源に遡って振り返ってみると、テレビは一見、番組を見るとためになり、文化的に豊かになれると思われてきたのですが、むしろ逆だったのかもしれないのです。推理小説では、善人に見える人が最後は真犯人だったことがわかる、というどんでん返しはよくありますが、テレビもそういう存在だったかもしれないのです。
1970年代から80年代にかけて、いろんな意欲的番組が作られ、放送されましたが、その一方で、テレビCMで象徴されるように、テレビは消費を煽るメディアでした。産業資本主義を否定したり批判したりする番組はほとんど制作することは不可能でした。しかし、その結果として現在の環境問題が生まれ、さらには対話のない分断された世界が醸成されています。テレビによって、人間のコミュニケーションは大きく変化し、人類史的に見ると、何か大きな断絶が起きたのです。このテーマは、フランクフルト学派がナチスがなぜ現代ドイツで生まれたのかを考察した『啓蒙の弁証法』(1947)と通底するテーマではないでしょうか。なぜ人間の暮らしや感性を豊かにすると思われていたテレビが、人間を野蛮にしているのか?ということです。人間がテレビのせいで野蛮になっているのか?ということは、まだ仮説で、検証の余地はあるかもしれません。しかし、疑いは濃厚です。個々の番組や報道スタンスがどう、という以前に、テレビというシステム自体に何か人間を疎外し、想像力を失わせ、偏見を植えつけ、無知をむしろ増幅し、根源的な不満や飢餓感を募らせていくものがあるのではないかということです。一言で言えば反人間的な何か、Xです。
テレビによって家族の会話がなくなったとは、当時からよく言われていたものです。テレビは何かを見せるものであり、同時に、家庭や地域、職場から会話を奪い、意識を統制するものでした。そこには、スポンサー企業が提案するA〜Eの中から1つ選べ、というような選択しかなくなったのです。自分たちで行う会話の中から地域の政治を形作り、働き方を決めていく、といったあり方が封じられ、中央(東京)から人目を引く論客たちの声という形で、指針が津々浦々に染みわたっていく文化の流れになっていきました。大手新聞社〜東京のキー局〜地方の系列局という序列の流れに乗って。これはソ連の中央統制システムによく似ているように思われます。いや、むしろゲッペルスの声と言ってもいいでしょう。その意味で、テレビは人々を統制し、自前の自発的な文化を奪ってきた側面があり、それは実は第二次安倍政権が始まってからなどではなく、1950年代の初期からそうだったと見ることもできるのです。テレビは効率的に大衆を支配することができる箱だったのです。
したがって、テレビ批判をする場合、個別の番組というのみならず、そのネットワークのあり方やスポンサー、統制者、ヒエラルキーまで見ていかないと本当には論じることはできないのではないかと思います。かつて私は『広告批評』という媒体を定期的に購入しており、CMのファンだったのですが、そういうのが文化の先端だと思い込んでいました。しかし、今にして思えば、かなり偏った視点だったと思います。これはフランスのボードリヤールが1970年に早々と『消費社会の神話と構造』で批判していることでもあります。そして、このテーマはプラトンの『国家』に出てくる洞窟の比喩を思い出させます。人々が洞窟*で、壁に投影されたろうそくの炎が作り出す影絵を見て、それが真実の世界だと思い込んでいる。そして、洞窟の外では太陽の日差しがさんさんと照りつけている。この影絵が公共性を失ったテレビです。・・・とまあ、こんなことを書いたら、昔の私の仕事仲間たちは絶対に私を許さんでしょう。
*PLATO ON: The Allegory of the Cave
https://www.youtube.com/watch?v=SWlUKJIMge4
村上良太
■実はフランスでも大統領と”飯友”のメディア幹部たちが大問題 〜オウム / 番犬と呼ばれる人々〜
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■フランスの「メディアパルト」(Mediapart)の有料講読を始めました 共同創刊者・編集長のエドウィ・プレネル氏からの手紙
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■マスメディアは自社の幹部が中華料理屋で首相と何をやっていたのか、まずそれを書くことから
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■マスコミ各社へのお願い3点 読者との信頼関係修復のために
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■ニューヨークタイムズの論説欄 〜魑魅魍魎の魅力〜 村上良太
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201107180344211
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