前回、第二次安倍政権で加速した報道の問題以前に、そもそもテレビというメディアに内在された問題があったのではないか、と書いた。それは今さら新しい言説ではなく、昭和時代に評論家の大宅壮一がテレビによって一億が総白痴化すると指摘した言説に象徴されるように当初から存在したものでもあった。私が思うテレビのメディアとしての問題点も、おそらくはそれと通底すると思われる。ここで、私なりに今、思いつくまま、その問題点を書いてみたい。
1)のんべんだらりと見続ける・・・TVを前に映像を見続ける人は少なくない。中には日中ぶっ通し、あるいは、夜型の人であれば、夜通し見ている人もいるだろう。こうした視聴を続けていると、TVで出てくる言説にいつしか洗脳されてしまうであろう。制作者的に言えば、テレビ番組はチャンネルを替えられないように制作時に様々な工夫を凝らしているもので、番組が終わっても次の番組を見てもらうように「この後すぐ!」などと次の番組のアナウンスを入れたりして、いつまでものんべんだらりと見続けてもらうように作られているのである。その結果として、CMを見ることによって消費を刺激される。また「トレンディ」な俳優たちの価値観に同化してしまう。
2)家族の食事の時間にTVを見る・・・これはテレビの全盛期に顕著だった現象であり、家族が食卓を囲んでいる時に、家族が皆テレビを見ながら飯を食う光景である。かつてテレビには啓蒙的な面があり、津々浦々の地方における閉鎖的な慣習を打破する、という面があったはずでテレビを見ることはそうした旧弊さへの治療でもあった。しかしながら、家族の会話がなくなってまでテレビの画面の中の他者の会話に心を集中する、というのは本末転倒でもある。やがてはTVはスマートフォンのように一人一台、個室的に視聴するものになっていくと、テレビを囲んでいた家族の空間すら減少していった。そして、盆も正月もない働き方の多様化が、その傾向に追い打ちをかけた。
3)テレビの世界が上で、日常の世界が下だと思い込む・・・2で触れたように、テレビには規範的な価値や、首都の最先端の風俗・ファッションがあると思われてきたため、そこに出てくる会話やファッションは津々浦々で模倣されてきた。そして、そうした気分が東京一極集中を招く原動力にもなった。「朝まで生テレビ」を見ると、そこにおける討論が討論の理想形だと思い込む人も多い。これらはプラトンの『国家』に出てくる洞窟の比喩で描かれたものと通底するだろう。洞窟で暮らしている人々は外界を知らず、蝋燭で壁に映し出された影絵を真実の形と思い込んでしまう、というやつだ。これは倒錯であろう。次第に人々は、自発的に自由にものを作るのではなく、与えられた選択肢から選ぶことしかできなくなった。これが現代人の疎外を作っている。選択肢がすべてくだらないものになったとしても、自分で立ち上げることができると思えなくなった。長年、選ぶことに満足していれば、このように自立性が奪われるものでもある。
4)以上のことを総合すれば、テレビは人々の主体性を奪い、思考力を麻痺させ、消費主義で洗脳する危険をはらんでいる*。テレビはここではない、どこか別の場所に本当の暮らしがある、という幻想を吹き込む。特に東京に、である。また、商品を買えば幸せになれると幻想を吹き込む。民放の番組はスポンサーが投資して作られるものであり、そこには消費を喚起する目的がある。また、NHKのような公共放送が与党の恫喝で公共性を失う時、政治洗脳の道具となる。そして、情報はこのシステムでは通俗的な意味での社会の序列の上下に従って流れていく。家族の会話を失った日本人は、放送作家が書き上げた即席の偽「お茶の間」の会話と空気に感染し、全国に画一的な思考が広がっていく。ごく少数の大企業主の意思が放送局の電波で拡散される一方、庶民がデモであげる声はテロと揶揄されたりする**。
これらの問題は、インターネット番組でもケースバイケースで同じ問題を含む可能性があるだろう。前に書いたように、ドイツの批判理論を築いたフランクフルト学派はなぜ現代ドイツで、ナチズムが生まれたかを検証しようとした。ホルクハイマーとアドルノの共著『啓蒙の弁証法』はその1冊であり、後継者のハーバーマスの『公共性の構造転換』はマスメディアの問題を指摘している。ナチズムはマスメディア抜きに考えられないし、マスメディアは大衆の時代の知のあり方の1つである。そして、現代の極右やレイシズムの問題もマスメディアの問題と通底する可能性がある。その意味で、第二次安倍政権下以降の報道の歪みの検証とともに、テレビというメディアそれ自体の検証も必要になってきていると私は思う。
では、テレビはもうオワコンなのか。これらの批判的検証を行うことによって、その問題点を克服する形で、新しい視聴方式、新しい放送形態、新しい制作方法もあるのではないかと私は思う。そして、そのための技術革新は、批判的討論によって生まれるものである。むしろ、その不在こそが問題点を克服できないまま、危機を深化させているのである。たとえば、私は地上波のチャンネルは、朝昼夜などで担当する企業体がもっと細かく分割されるべきだと考えている。その中では大きな企業も小さな企業も一定の基準と手続きにより参入できるようになるべきだ。1つの大きなチャンネルが娯楽からスポーツから報道から教育からすべてを百貨店のように朝から深夜まで番組を制作するのは、もはや時代とずれていると思われる。そして、放送局〜制作会社という序列もやめるべきだ。さらにそこにはもっと地域のチャンネルの割合を増やすべきだろう。地方の企業スポンサーによる10万円ぽっきりの出資で2〜3人で制作した番組であっても、そこに公共性があるなら放送できることが大切だ。あるいは100人の市民による少額出資の制作資金でも公共性があればよいだろう。逆に大企業スポンサーによる数千万円の投資で制作された番組であっても公共性を欠くなら放送すべきだはない。したがって、これは大企業・経団連および電通などによるメディアコントロールからの脱却を目指し、さらには地方の生活を新たに創造すること***でもある。これまでの大企業の資金による制作ではない形で〜すでに市民の寄付という手法は始まってはいるが〜番組が制作・放送できるような新しい金融の形も模索されるべきだろう。公共における言論の力が資金力に比例する、というような遅れた時代は今すぐに終わりにする必要がある。
そして、放送局のサイズも問題だ。放送局もNHKのような巨大ネットワークになってしまうと、末端の一人一人の局員には放送局の暴走を止める術がなくなってしまうが、放送局の規模を縮小すれば問題が浮上した時に局員全員が一堂に会して話し合って決めていけるのである。これはルソーの『社会契約論』と通底する。放送局はメディアであり、メディアはまずは自分の局内の健全かつ人間的なコミュニケーションが基本であると私は考える。つまり、住民のコミュニケーションを仲介する放送局の運営のあり方自体が、地域の民主主義の指標となるべきなのだ。そこでは今日、放送局の製作・運営で不可欠になっている派遣スタッフの是非も問われることである。彼らに発言権が現実的にあるのか、ということだ。放送局内の差別や歪みは、放送内容の歪みと通底するはずである。放送局のサイズを小さくして、それぞれ津々浦々で独立性を持たせれば、資金力も比較的小規模で済み、巨大資本の影響なしに番組を作れるようになるだろう。今日本で起きている問題の根源にテレビ局の劣化があり、テレビ局が反民主的な機関に成り下がっていることがある。身分制社会に日本を後退させつつある世襲政治家たちを茶の間に売り込んでいるのもテレビである。何度も書いていることだが、政治家の世襲は恥ずべき日本版カースト制度である。これらを正すだけでも、かなりの政治的・経済的・社会的問題が解決に向かうはずだ。政治家を親や家族に持つ人々が政治家を目指す場合は、それが他の人々との公平の見地から逸脱しないような一定の規則のもとにのみ認められるべきなのだ。また、地方のメディアが健全になれば地方発のファシズム的政治運動も阻止できるかもしれない。
特に今日、大きな問題はテレビがその草創期の柔軟性、創造性を失い、制度化・固定化されていることだろう。そこでは様々なルール・規則ばかりが蓄積し、制作者自身ががんじがらめになっているのだ。そこでは合議ではなく、序列と権力と資本力が物事を一元的かつ不可逆に決める。これは1980年代半ば以降の学校における生徒や教師の管理のあり方と通底するものがあると私には感じられる。ソックスの長さやら、髪型やらを校門でチェックして少しでも平均値と異なる学生を排除するシステムである。
*税金で政党CM 自民・民主とも 100億円超 電通・博報堂が受注トップ (赤旗 2007年)
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-06-02/2007060215_01_0.html
**(赤旗)弾圧立法の本質見えた 〜“デモを「テロ」”扱い 石破発言 〜秘密保護法案
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-03/2013120303_01_1.html
***「Community wealth building」地域の核となる病院や大学、地方放送局、金融機関などを要にして、地域の労働者のための協同組合企業体などを組織し、その地域で生産された商品やサービスの収益が、大企業=首都や外国ではなく、その地域を潤していけるような地域の総合再生プロジェクトを指す。多国籍企業の大資本によるグローバリゼーションに対置する形で、英国や米国などですでに試みられている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Community_wealth_building
村上良太
■実はフランスでも大統領と”飯友”のメディア幹部たちが大問題 〜オウム / 番犬と呼ばれる人々〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202303151539343
■フランスの「メディアパルト」(Mediapart)の有料講読を始めました 共同創刊者・編集長のエドウィ・プレネル氏からの手紙
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202209170751586
・広告ゼロ ・国家による援助ゼロ ・グーグルからもフェイスブックからも補助金ゼロ ・株主ゼロ
■柳澤恭雄著「戦後放送私見〜ポツダム宣言・放送スト・ベトナム戦争報道〜」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201307122354505
■民主主義とテレビ
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201308202158112
■テレビ制作者シリーズ11 「報道のお春」吉永春子ディレクター
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201004081911144
■現代人が筆をとるとき 〜なぜ書くことを人に勧めるのか〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201612190140401
■私はなぜ刑務所の民営化と闘ってきたか 元受刑囚で「刑務所法律ニュース」のジャーナリストに聞く Interview : Alex Friedmann , Managing Editor of "Prison Legal News."
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201612081813454
■日本のアニメで育った第一世代のフランス人漫画家アレクサンドル・アキラクマさん Interview : Alexandre Akirakuma 日仏に共通する騎士道物語への郷愁
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201612160557175
■イタリアの第一線のイラストレーター Davide Bonazzi (ダヴィデ・ボナッツィ) 氏のインタビュー 錯綜する世界をシンプルに表現して訴える
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201611091247583
■地域の子供に無料の作文教育を 子供の教育を変えたサンフランシスコの ”826 Valencia” , One-on-one tutoring can help students make great leaps in their writing skills and confidence.
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702080540363
■コンテンツとストラクチャーの違い 報道のストラクチャーの民主化こそが重要
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202208281059390
■NHKが映らないテレビは受信料契約の義務なしという判決のインパクト
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202006271013156
■TVスポンサー法の制定を 3 民放と言えども公共性がある
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202005261621132
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