2年前に出版された武井彩佳著『歴史修正主義〜ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』は、歴史修正主義の歴史とその概念が丁寧に説明されている本で、極めて有益に思えました。私が今研究しているフランス現代史のテーマとも密につながっていまして、先日、ある歴史学会で私と同じ分野の研究をしている若い人もまた本書を参照していることを知りました。読まれているんだな、と感じた次第です。
歴史修正主義と言えば、私が思い出すのは民主党政権時代に、それへの反発と危機感から、嫌韓という潮流が見られ、書店でも嫌韓本が並ぶ時代になっていたことです。特異な書店だけでなく都心の大手書店でもそうなったのです。そして、歴史修正主義の本が書店を席巻し、その一方でクラシックも含めて人文学、社会学の書籍のスペースが減少していました。そうした時代に第二次安倍政権が発足しました。NHKの運営委員に極右の作家や教授が抜擢され、2014年にはNHK会長に「政府が右というものを左と言えない」という商社マンだった籾井勝人氏が就任しました。この発言は従軍慰安婦をめぐる質問*などへの答えでした。この発言は籾井会長の就任時の記者会見の時のことでした。この発言がこの時代を象徴するものとなり、風向きは変わったのだというショックを放送局の人々に与えたことは間違いありません。その少し前にはNHKは戦争や植民地主義を反省するドキュメンタリー番組を作り、極右・右翼から激しく批判されていたものでしたが、それが逆になっていくのです。この2012年から2023年までを総括すれば「歴史修正主義の時代」になると思っています。公文書の廃棄や改竄、国会に提出する統計データの改竄、財務官僚の自殺、ゆがんだ記者会見、メディアの忖度なども重要な構成要素です。事実を否定し、真実を追求しない「歴史修正主義の時代」は、国民の精神の活力が乏しくなり、科学も文化も経済も停滞し、世界から孤立するため、最悪の場合、カタストロフィーで終わります。
武井彩佳著『歴史修正主義〜ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』は、武井氏の専門であるドイツ現代史を反映して、反ユダヤ主義と絡む形で、欧米の歴史修正主義の歴史が語られています。ですから日本国内のことはほとんど記載されていませんが、欧米の歴史修正主義の源とその発展を歴史的に見つめることはアジアにおける歴史修正主義を考える上でも極めて参考にできるものです。とくにドイツやフランスなどの戦時中を描いた歴史映画、特にナチズムを描く映画を見る時、本書で出てくるキーワードやら、説明される背景やらが映画をもっと深く味わう助けをしてくれます。たとえば『否定と肯定(原タイトル:Denial)』というタイトルで映画化された「デイヴィッド・アーヴィング対デボラ・リップシュタットとペンギンブックス」というロンドンでの名誉棄損裁判〜これはユダヤ系の米歴史学者がホロコーストを否定する否定論者に訴えられ、非常に注目を集めた裁判でした。この裁判の経緯は本書の核の1つで、しっかり述べられています。その他にドイツにおける戦後の元ナチ党員の復活や歴史修正主義の台頭、またいわゆる『ドイツ歴史家論争』などについても触れられています。近年制作されたドイツの歴史映画『アイヒマンを追え!』(2015)や『顔のないヒトラーたち』(2014)の背景を考える上で貴重な情報源です。
そして米国について私に興味深かったのは、第二次大戦中にしばらく米国が欧州戦線に参戦しない「中立」の時代が続きましたが、その背後の「中立法」(1935‐1941)について書かれていたことです。中立法の制定が米国における歴史修正主義の政治運動による産物だったことを初めて知りました。この時代の米国の歴史修正主義は、第一次大戦の責任はドイツだけにあったわけじゃない、というものでした。戦争の裏には、兵器産業や銀行(ユダヤ人を暗に意味した)などの陰謀があったという意味で、レイシズム的な意味が含まれていたということでした。
この米国の中立法は、『Darkest hour』(ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男)というゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じた映画でも、重要な1コマとなって語られていました。ドイツ軍の進撃とフランス軍の敗退、ベルギーの降服などでいよいよダンケルクの海岸に追い詰められた英軍も危機に直面していました。四面楚歌の中、チャーチルが大西洋の彼方のルーズベルト大統領に、軍艦か戦闘機を送ってくれと電話で頼むものの、「中立法のおかげでどうすることもできないんだ」と断られる一幕がありました。中立法は何度か改定されており、武器の供給ができるようになったもののその方法が現金引換えでかつ相手国の負担で行われる必要があった**らしく、なかなか使い勝手の悪いものになっていたようです。チャーチルにとってダンケルクに追い詰められた30万人に上る英軍兵士を無事帰国させることが喫緊の課題であり、英国の独立を守るために生命線となっていたわけでした。『Darkest hour』におけるチャーチルとルーズベルトの電話のやりとりは、そのためのもので、いかに中立法を破らずに武器を英国に送ることができるかをめぐるもので、一刻の猶予もない瀬戸際ながら二人の呻吟ぶりとルーズベルトの冗談交じりのセリフで、かなり印象深いシーンになっていました。余談になりましたが、この本はそうした意味で様々な文脈で、これまで映画で「?」と思ってきた数々の疑問が解決できた書でした。本書の冒頭では歴史学の基本的な考え方も説明されているため、歴史学の入門書としても使える一冊です。
私はメディアの未来を考える時、今とは大きく違った番組制作放送システムになると想像しています。クリエイターはもっと多数かつ多元化されると信じています。その際、個々のクリエイターたちが歴史をどう考えるか、歴史修正主義に陥らないためにどうしたらよいか、と考えておくことはとても重要です。その意味でも本書はこれからもっと必要になる書であり、今後も長く読みつがれて欲しい書です。長く続いた「歴史修正主義の時代」に今こそ、句読点を打つ必要があります。
*衆議院(NHK会長の各種発言に対する政府の見解に関する質問主意書)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a186007.htm
**米政府の歴史サイト「The Neutrality Acts, 1930s」
https://history.state.gov/milestones/1921-1936/neutrality-acts#:~:text=On%20August%2031%2C%201935%2C%20Congress,apply%20for%20an%20export%20license. ”The Neutrality Act of 1937 did contain one important concession to Roosevelt: belligerent nations were allowed, at the discretion of the President, to acquire any items except arms from the United States, so long as they immediately paid for such items and carried them on non-American ships〜the so-called “cash-and-carry” provision. ”
■ナチ犯罪を振り返るドイツ映画『アイヒマンを追え!』(2015),『顔のないヒトラーたち』(2014)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202306111357060
■ナチ犯罪を振り返るドイツ映画『ヴァンゼー会議』(2022)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202306121623511
■ナチ犯罪を振り返るドイツ映画『ヒトラー最期の12日間』(2004) 〜ブレヒトを越えた群像劇〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202306131704382
■朝日新聞とは? 2
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201008291040590
■朝日新聞とは? 3
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201009080055493
■日本の大メディアによる、フランスの年金改悪反対デモの伝え方 朝日新聞もNHKもデモへの冷笑的視点で描いてきた
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202001202020581
■ジェフ・キングストン氏が豹変したジャパンタイムズについて書いたコラム”Media ethics betrayed in Japan” ( Jeff Kingston ) 言論機関への政府介入事件の可能性も
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201902122156422
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