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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2024年05月21日21時50分掲載
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文化
野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行8》 岩手とまたがる花輪鉱山 鹿角市花輪
秋田県と岩手県にまたがる鉱区を持つ花輪鉱山は幕藩時代から続く古い鉱山で、一時休山となっていたが、昭和に入って経営が日本鉱業に移ってから硫化鉄興さんとして栄えた。戦時体制下の1940年(昭和15年)以降、たくさんの朝鮮人連行者が「官斡旋・徴用」で送りこまれた。国家による強制連行であったことが分かる。(大野和興)
花輪鉱山の鉱区は岩手県八幡平市と秋田県鹿角市に跨がる。「八幡平市に本社と選鉱場を置くが、採鉱事務所およ び鉱床は鹿角市にある」 開発の歴史は 古く、藩政時代には外山と称し、南部藩営であった。明治初期に鹿角市の人に経営が移り、1920 (明治9)年に久原鉱業が買収したが、銅品位が低く、1926 (大正15)年に一時休山となった。1929 (昭和4)年に日本鉱業に移って以来、硫化鉄鉱山として栄えた。
花輪鉱山に朝鮮人連行者が来たのは、旧厚生省に花輪鉱山が提出した資料によると、 1940(昭和15)年 67人 1941(昭和16)年 97人 1943(昭和18)年 128人 1944(昭和19)年 45人 計 337人 となっている。しかも、全員が 「官斡 旋・徴用」であった。だが、花輪鉱山が提出した資料は1 枚の「附記」だけで、個人の名前は勿論のこと、 出身地や入山した月日もわからない。
しかも 「附記」 には(1)の年度別割等数及雇用数、 (2) 終戦時ニ於ケル朝鮮人労務者数40人、 (3) 帰国セシメタ ルモノ数40人とある。337人を雇用しながら、帰国したのは敗戦時に鉱山にいた40人だけである。 ただ、 (5) には死亡者数2人。負傷者数2人、 逃亡者数39 人とあるが、40人に死亡者、負傷者、逃亡者43人を足しても、254人が不足する。
花輪鉱山が閉山したのは1986(昭和 61) 年であり、調査団が花輪鉱山へ現地調査に行ったのは1998(平成10)年である。 鉱山から流れる廃水処理をする会社の職員がいるだけで、 操業時の人は誰もいなかった。 職員は鉱山とは関係のない人たちで、戦時中の鉱山のことは知らなかった。
参考文献 『秋田大百科事典』 (秋田魁新報社) 1981年
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今も残る坑口の奥は暗い
花輪鉱山周辺地図
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