・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・アジア
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・入管
・地域
・文化
・欧州
・農と食
・人権/反差別/司法
・市民活動
・検証・メディア
・核・原子力
・環境
・難民
・中東
・中国
・コラム
提携・契約メディア
・AIニュース


・司法
・マニラ新聞

・TUP速報



・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus

・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2025年03月30日
・2025年03月29日
・2025年03月28日
・2025年03月27日
・2025年03月26日
・2025年03月23日
・2025年03月22日
・2025年03月21日
・2025年03月19日
・2025年03月18日
|
|
2024年05月29日13時35分掲載
無料記事
印刷用
アジア
「南シナ海航海記」(3)アユギン礁に上陸 警備の兵士、過酷なる退屈
【第3日目】 アユギン礁に上陸 そもそも私たちがどうやってこの輸送艦ラグナに潜り込むことができたか。 それは当時の三井マニラ支局長の長期にわたるフィリピン海軍、国防省、外務省との交渉の賜物だった。 国防省や外務省の立場からすれば、外国メディアの記者を同乗させることにはリスクもある。当時はルソン島西方沖の中沙諸島とも呼ばれる海域にあるスカボロー礁を中国が実行支配、ノイノイ・アキノ政権下のフィリピンと中国と間では、緊張が高まっていた。 外国メディアが南沙諸島海域におけるフィリピンの実効支配の状況を大きく報じれば、中国がどう反応するかは予想がつかない面があった。また、フィリピンの実効支配の状況の詳細という機密が公表 されることにもなり得る。 このため、いったん軍から出た許可が取り消されたこともあった。ようやく、国防省、軍からほぼ「同乗OK」との連絡が入ったのが2012年5月半ばだった。(REAL ASIA特約=石山永一郎) ただし、条件付きで、(1)食料はすべて持参すること(2)島は岩礁に上陸する際の上陸用ボートも持参することーを課せられた。上陸用ボートは小型のエンジン付きのものをマニラで三井支局長が買い、プエルトプリンセサにある海軍西部方面軍基地にあらかじめ送った。 そして、東京からプエルトプリンセサに先乗りした私が、何度か西部方面軍基地を訪れ、最終的な出発予定の確認役をすることになった。 私は西部方面軍の司令官に連日会い、お土産としてカップヌードルや私たちへの連絡用として500ペソのテレフォンカード10枚などを渡した。あくまで「連絡費の肩代わり」であって賄賂ではない…、いや、若干の賄賂的意図もあったか。 プエルトプリンセサで私は、カラヤアン町のビトオノン町長にも何度か会った。ビトオノン町長は環境運動家でもあり、「南沙諸島の手付かずの自然が保たれ、ゆくゆくは観光地として開放されることを願っている」と話し、領有権紛争とは距離を置く人物だった。町長にはフィリピンが実効支配する島や礁の現状についても説明を受けた。 プエルトプリンセサのカラヤン町舎の一角にはパグアサ島と連絡を取るための無線機施設もあった。 土壇場まで私たちが同乗できるかどうかは分からなかったが、最終的に5月27日にプエルトプリンセサを出発したラグナにこうして乗ることができた。幸運だった。
3日目の午後、船は最初の補給実施地であるアユギン礁(英名セカンドトーマス礁)近くで停まった。とはいえ、アユギン礁は舷側から見えなかった。目のいい海軍の乗員たちは「遠くに見えるじゃないか」と言うのだが、私の肉眼では見えなかった。望遠レンズで言われた方向を見ると、やっと赤茶けた点のようなものが見えた。アユギン礁周辺は広大なサンゴ礁が広がっているため、輸送艦ラグナは近づけないのだ。このため、補給は海軍の特殊部隊がゴムボートで行った。 本来の約束では、こういう時は私たちの自前のボートで行かなければならないのだが、なんとか頼み込み、その特殊部隊のゴムボートに乗せてもらった。私たちのゴムボートよりはるかに頑丈そうだったからだ。 ゴムボートはサンゴの花畑のような海を走った。 途中、スピードを緩め、やがて停止すると、特殊部隊員が膝までの浅い海にするりと入り、すっと潜ると何かをつかんでまた浮上した。その手には大きなロブスターがあった。釣り具などなしの手づかみの収穫だった。「この辺りにはたくさんいる」と特殊部隊員らは言う。彼らはさらに2、3匹、ロブスターをわしづかみして戻って来た。そしてゴムボートはまたアユギン礁に向けて出発した。 目の前に現れたアユギン礁は、朽ち果てた幽霊船のような姿だった。錆びて赤くなった中型船が浅瀬に座礁していた。
1999年に比が実行支配
ここはフィリピンが南沙諸島において1998年に実効支配を広げた最後の場所だ。 南沙諸島の領有権問題が最初に火を噴いたのは、1988年3月に起きた中国とベトナムとの間の南沙諸島海戦がきっかけだった。ベトナムの水兵がジョンソン南礁(中国名・赤瓜礁)に上陸したことをきっかけにおきたこの海戦で、中国海軍はベトナム海軍をほぼ一方的に打ち破り、ベトナム海軍は死者70人という被害を被った。 1970年代までの中国は、文化大革命が吹き荒れ、海洋進出どころではなかったことから、南沙諸島の実効支配ではフィリピンやベトナムに大きく遅れをとっていたが、この海戦で赤瓜礁のほか、ファイアリー・クロス礁(永暑礁)、クアテロン礁(華陽礁)、ヒューズ礁(東門礁)、ガベン礁(南薫礁)、スービ礁(渚碧礁)といった南沙諸島西方海域の岩礁を実効支配、南沙諸島への進出の一歩を踏み出す。 今、このような海戦が起きたら、大事件として国際的に大きく報道されると思うが、当時は南シナ海の領有権問題はさほど国際的に注目されていなかったためか、国際的に報じられたニュース量としてはわずかで、共同通信のデータベースを見ても、記事は1本だけしか出ていない。 南シナ海の領有権問題が大きく注目されたのは1995年に中国が南沙諸島西方海域の低潮高地(満潮時には海面下に沈む場所)ミスチーフ礁(中国名・美済礁)の実効支配に乗り出し、最初に小さな小屋を建てた時からだった。 それに対する報復的措置として、エストラダ政権下のフィリピンが99年に海軍の老朽船を「サンゴの花畑」の中に座礁させて海軍兵士が常駐できる場所を造り、実効支配を始めたのがアユギン礁なのだ。ここはミスチーフ礁から約15海里(約28キロ)と近い。 こういう経緯があるゆえ、フィリピンが実効支配する11の島、礁、洲のうちでも、中国海警局の船が最も苛烈なフィリピン漁船排除などを行う場所の一つがこのアユギン礁付近だ。
「退屈で気がおかしくなる」
アユギン礁の座礁船は朽ち果てようとしていた。座礁させてから当時で10数年の月日が経つ中で赤い錆だけが目立っていた。 実際に船室の階段を上ろうとした時「その階段は崩れる。危ないからよせ」と兵士に止められた。 結局居住スペースといえる場所は畳15畳ほどの緩やかに傾いた甲板の上と、船室内の狭い通路部分だけだった。 兵士の1人に本音の感想を聞くと「とにかく退屈で気が変になりそうになる」という。 1日の仕事は周辺を走る外国船を日中、双眼鏡を使って確認して記録を付けるだけ。それも2人でできる仕事なので、残り2人はチェスをしたり、ビデオが付いたテレビで限られたビデオを何度も再生して見たり、釣りをすることぐらいしかやることがない。ビデオはボクシング王者パッキャオの試合のビデオが多く同じ試合を「何十回と観る」という。 アユギン礁にはネットが通じておらず、フィリピンのテレビ、ラジオの電波も届いていないためだ。 「現在は4カ月交代勤務だが、以前、6カ月交代勤務だった時には意味もなく海に向けて自動小銃を発射し続ける奴がいた。すぐに緊急無線を打って、そいつを軍に引き取ってもらった」と1人が言う。それ以来、6カ月交代の勤務は4カ月交代に短縮されたという。 アユギン礁近くの海を潜ってみたが、透明度、魚影、サンゴ礁とも申し分なく、近くには伊勢エビが手づかみで捕まえられる「サンゴの花畑」がある。釣りとダイビングをやり続け、100冊ほど本を持ち込めば、半年でも私は耐えられるだろうと思ったが、フィリピン人海軍兵士にとっては4カ月がぎりぎりのようだった。 「唯一の楽しみは給料が丸々貯まる事だけど、女房に使われてしまったら貯まるはずのものも貯まらない」そうだ。 確かにサンゴの花畑に囲まれた「牢獄」で過ごすような思いなのだろうなと同情しつつ、アユギン礁を去った。その日は周辺に外国船の姿を見かけることはなかった。 輸送艦ラグナに戻り、その日は甲板の天幕の下で寝た。
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
フィリピンが1998年に廃船を浅瀬に座礁させて実効支配したアユギン礁





|