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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2025年03月21日12時38分掲載
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文化
野添憲治の「秋田県における朝鮮人強制連行の記録」22回 石切場でも働く
古くから石切を主産業として生きてきた村に、アジア太平洋戦争のとき、朝鮮から作業員が連れてこられた。川岸に飯場が作られ、日本人から暴力を振るわれて逃げ出す人が多かったという。山に逃げるのだが、見つけられて飯場に連れ戻された(大野和興)
折檻されてよく逃げていた
ニツ井町切石は米代川に面した段丘の麓に発達した小村で、古くは竜毛村と称した。1805(文化2)年にこの地を歩いた菅江真澄は「この切石(二ツ井町)はもっとも古い村で、遠いむかしには嫁沢といい、なかごろには舟泊りの宿といって、村はずれにそのような家がわずかにあった。いまは七居山(七折山、260メートル)のほとりで石切の生業がおこわれているので、村を切石」と言ったというから、古い時代から石切がされていた。切り出された石は地元で塀などに多く使ったが、船に積んで能代にも運んだので、能代方面でもこの石を塀にしている家がある。
七折山の麓ではアジア·太平洋戦争中にも石切の仕事をしていた。贅沢品に思われるが、何か特別な使われ方でもしたのだろうか。石切場は川向かいの梅内集落の藤田助治がやっており、従弟が現場の責任をしていた。石切場では地元の人だけでは労働力が不足し、遠く能代市からも働きに来ていたというから、盛んだったのだろう。 
石切場にはアジア太平洋戦争の時に朝鮮人も来て働いた。年代ははっきりしないが、川岸に建てた飯場に寝泊まりしていた。ハッパをやれる人もいて、朝鮮人がいると仕事が捗ったという。人数は不明だが、「朝鮮人はよく逃げるので困ったと夫(助治)は言っていた。山へ逃げると探しに行き、連れて帰るとまた飯場に入れていたが、一緒に働いている日本人に折檻されるから逃げたのではないですか」(藤田チエ)と言う。
石切場の朝鮮人たちは、働く人が不足している外面の護岸工事や、稲刈の時に男たちが少ないので遅れた時には田んぼでも働いたという。敗戦の年に賃金を貰うと着物のぬい目などに入れて帰った。
参考文献(1)内田武志·宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記』4(平凡社)1967年 (2)「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」第24号 2001年
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川べりに飯場があった





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