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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2025年04月14日13時28分掲載
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欧州
イタリア現代史ミステリー第2弾「ウスティカの悲劇」(その3)~チャオ!イタリア通信(サトウノリコ)
<当時の国際情勢> 事件が起こった1980年を振り返ってみよう。まず、イタリアは「鉛の時代」と言われるテロリズムによる社会混乱の時代だった。「鉛の時代」は、1960年代終わりから1980年代に渡る。テロは、暴力的左翼組織「赤い旅団」からネオ・ファシズム活動も含めて、おおよそ140件の事件を起こした。首相アルド・モーロが「赤い旅団」に殺害された事件は、「鉛の時代」を象徴する事件である。
この「鉛の時代」は、冷戦の産物と言える。活発になる学生運動や左翼運動を阻止するために、アメリカを含む西側諸国がネオ・ファシスト活動を裏で支援したということだ。その争いに、市民が巻き込まれ多くの死亡者を出した。その中で起こったDC9の墜落。テロ事件の一つと考えられるのも当然の結果とも思えるが、その証拠は全くない。
ただ、こういったイタリアを取り巻く情勢が、この事件のカギとも言える。わずかに残されたレーダー分析の結果、DC9の周囲を戦闘機が飛んでいたことは事実だ。イタリア前首相コッシーガの発言から、その戦闘機がフランス軍であるということも事実だろう。それでは、なぜフランス軍が戦闘機まで出して、何をしていたのだろうか。戦闘機を出すというのは、異常事態である。
フランスが何と争っていたのか。当時、フランスはチャドをめぐってリビアと争っていたのだ。1978年から1987年にかけて、チャド内戦をきっかけにリビアとフランスは敵対するグループを支援する形でチャド内戦に関わっていく。
リビアは1969年にカダフィによりクーデターが行われ、1980年の事件当時カダフィが元首となっていた。カダフィはソ連から援助を受けたり、1970年から1990年代にはテロ事件を支援するなど、アメリカからは2006年まで「テロ支援国家」に指定されていた。つまり、リビアは西側諸国にとって「危険な国」だったし、鼻につく存在だったのだ。
こんなリビアだが、唯一西側諸国でリビアと友好な関係を持っていた国がある。それがイタリアだ。イタリアとリビアの関係は、遡って1934年。イタリアがリビアを植民地にした年である。第二次世界大戦後、リビアはイタリアの植民地ではなくなるが、経済関係は続いていた。リビアはイタリアに自国の安価な石油を提供したり、カダフィはイタリアの最大企業フィアットの株を13%所有したり、リビアには2500万人のイタリア人が働いていた。
イタリアは表向きNATOという同盟関係を持ち、裏ではNATOと敵対するリビアと関係を持っていた。プリオーリ判事は、この状況を「イタリアはアメリカという妻を持ち、リビアという愛人を持っていた」と表現している。まさに、リビアはイタリアにとって隠しておかなければならない存在。
さらに、イタリア空軍の秘密諜報部のジュリオ・リグアンティ元帥によると、「80年代、イタリアはカダフィの飛行機が我が国の領土を通過して、飛行機のメンテナンスを行う工場があった旧ユーゴスラビアに達することを許可した」つまり、リビアの飛行機は、イタリア上空を自由に飛ぶことができたわけだ。ただ、それは公にはできないこと。西側諸国に知れたら、大変なことになる。ということは、レーダーの記録には残せない。
どうだろう。イタリアは危険な綱渡りをしていたと言えないだろうか。一つ間違えれば、イタリアが困難な状況に陥る。ウスティカの事件が起こったころ、こんなエピソードがある。
カダフィからローマにあるリビア大使館を通して、イタリアにいる反カダフィ派の人物の住所を教えてほしいとイタリア側に連絡を入れた。その後、この人物は殺害された。この人物は実はCIAの情報者でもあった。アメリカ側から、「この関係(イタリアとリビアの)を終わらせなくてはならない」と言われたのだ。
リビアを「テロ支援国家」と指定したアメリカと、チャドでリビアと敵対しているフランスから、イタリアとリビアの関係が好意を持って受け取られないことは明らかだ。こうした緊迫関係が続く中、アメリカの航空母艦「サラトガ」も、事件が起こる直前1980年6月23日ナポリ湾にやってきた。
DC9が墜落した当時のNATOの公式記録に身元不明の飛行機5機が載っていた。その中にリビアの飛行機があったと推測できる。さらに、海から飛んで海に帰っていく飛行機もあった。航空母艦から飛行機が飛べば、理屈に合う。つまり、当時イタリアにあった航空母艦と言えば、上記の「サラトガ」。アメリカの飛行機が飛んでいたと言える。
すべては推測だが、この情勢からしてリビアの戦闘機ミグ機がDC9の陰に隠れて、イタリア上空を飛んでいた。そのミグ機を追跡して、フランス軍戦闘機とアメリカ軍戦闘機が飛び立つ。DC9が、その戦闘状況に巻き込まれた。一部残されたレーダーをNATOが分析した結果、DC9の航路を3機の飛行機が横切ったことも明らかにされた。これが、DC9が墜落した当時の状況である。
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