・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・国際
・農と食
・教育
・文化
・アジア
・入管
・中国
・市民活動
・米国
・欧州
・みる・よむ・きく
・核・原子力
・検証・メディア
・反戦・平和
・外国人労働者
・司法
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・市民活動告知板
・人権/反差別/司法
・沖縄/日米安保
・難民
・医療/健康
・環境
・中東
提携・契約メディア
・AIニュース
・司法
・マニラ新聞
・TUP速報
・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus
・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2024年11月22日
・2024年11月21日
・2024年11月20日
・2024年11月18日
・2024年11月17日
・2024年11月16日
・2024年11月15日
・2024年11月14日
・2024年11月13日
・2024年11月12日
|
|
2009年07月06日15時38分掲載
無料記事
印刷用
戦争を知らない世代へ
「東洋のゲルニカ」重慶爆撃の惨事を忘れまい 日中戦争から72周年 中谷孝(元日本軍特務機関員)
7月7日が七夕だということは知っていても、72年前の1937年(昭和12年)の同じ日に日中戦争が始まったことを知る日本人は少ないだろう。日中戦争に於いては南京大虐殺が大きく取り上げられてきたが、日本軍が侵攻できなかった臨時首都重慶の悲劇を知る人はさらに少ないに違いない。「東洋のゲルニカ」と言われる市民の無差別殺戮が日本軍の重慶反復爆撃により起きていたのである。
過去戦争の度に戦場となった都市住民は例外なく大きな犠牲を強いられてきた。日本では戦争末期に起きた沖縄戦、或いは本土大空襲による住民被害が語られているが、重慶爆撃の惨状もその例外ではない。「東洋のゲルニカ」と言われるのは、同じ年にスペインのフランコ軍を支援するナチス・ドイツ空軍の爆撃によってゲルニカの多数の市民が犠牲となった惨状に匹敵する激しいものであったからである。
同年上海攻防戦が決着した日本軍が首都南京攻略に向かうと、南京の国民政府機関は一時漢口に疎開し、更に四川省の省都重慶に移った。翌1938年(昭和13年)10月日本軍は漢口を制圧したが、僅か上流の宜昌を占領した時点で進撃が止まった。補給の限界であった。
その後は長期に渉り重慶市街に対する爆撃が続いた。重慶は背後に岩山が連なり、政府機関は山腹に掘った横穴に設けられて破壊を免れていたが、市街地の被害は大きく死傷者も多く発生した。その為、山腹に巨大な横穴式防空壕が作られ、空襲の度に多数の市民がそこに避難していた。
或る日、日本軍の波状攻撃が特に長時間にわたった為、密閉状態の壕内が酸欠となり、奥の方の避難者が開扉を求めて出入り口に殺到し、内開きの門を開くことが出来ず、数千人が窒息死する惨事となった。
当時、現地新聞には死者一万人と報じられたが、五千人以上とも伝えられている。開戦当初、中立地帯、上海共同租界南京路で大群衆を中国空軍機が誤爆した事件以来の大災害であった。
|
関連記事
日本軍の重慶爆撃被害者も参加 浅草ピースウォークにヒロシマ・ナガサキ被爆者らと
「紳士が鬼になる」戦争を繰り返してはならない 元日本軍特務機関員・中谷孝氏が若い世代に講演
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
|